前回は、ヨット(yacht)の語源となったオランダ語の ヤハト(jacht)について、その歴史を辿り、オランダには現在のヨット文化につながるようなプレジャーボートの文化が、すでに存在していたことがわかりました。
では、そのヤハトが、どのようにして英国の「yacht」へとつながっていったのでしょうか。
その歴史を調べてみると、どうやら一人の人物が大きく関係していました。
その人物は、まだ少年といってもいい年齢で、ある事情から故国である英国を離れなければならなくなります。そして長い海外生活の中で船を操る楽しみを知ったようです。
やがてオランダに滞在するようになり、そこですでに広がっていたヤハト文化に触れ青年時代を過ごします。そして十数年後、英国へ帰る時が来ます。
もし彼が若くして英国を離れることがなかったら、もしオランダで過ごすことがなかったら、そして英国へ帰ることがなかったら…
その後の英国のヨット文化は、まったく違った歴史を歩んでいたかもしれません。
一人の人物が、歴史の大きな流れの中で、偶然の積み重ねから、オランダから英国へ持ち帰ることになった「ヨット文化の種」。
今回は、その人物の少年時代から英国へ帰るまでを辿りながら、オランダの ヤハト がどのように英国へ渡っていったのかを調べてみたいと思います。
英国を追われる
1630年5月29日、彼はロンドンで生まれます。しかし、彼が少年から青年へと成長する時代の英国では、国王と議会の対立からイングランド内戦(English Civil War)が起こり、王党派と議会派との間で激しい戦いが続いていました。1646年になると、戦況は王党派にとって極めて厳しいものとなります。このとき、彼は若干15歳でした。
王位継承者である息子が議会派に捕らえられることを恐れた国王チャールズ1世(Charles I)は、息子を自分のもとから離し、安全な場所へ逃がすことを決めます。
その息子こそ、後の英国国王となるチャールズ2世(Charles II)です。彼はイングランド南西部を離れ、1646年3月に海を渡ってシリー諸島(Isles of Scilly)へ、さらに4月にはイギリス海峡に浮かぶジャージー島(Jersey)へと移りました。そして、5月29日、故国を離れたまま16歳の誕生日を迎えます。
さらに6月にはジャージー島を離れ、フランスへ渡ります。そこには、すでに英国を離れていた母ヘンリエッタ・マリア(Henrietta Maria)がいました。
こうして15歳で追われるように父のもとを離れたチャールズは、16歳になる頃には海を渡り、故国を離れて暮らすことになったのです。
16歳の王子と船との関わり
英国を離れることになったチャールズですが、この亡命の旅の中で彼が船に強い興味を示したエピソードがあります。
1646年、シリー諸島からジャージー島へ向かう航海では、チャールズは乗っていた船の舵を自ら握り、一度舵をにぎると2時間ほど舵を取り続けることもあったと伝えられています。
ジャージー島に到着すると、さらに本格的に船の扱いを学ぶようになります。
その相手となったのが、サー・ヘンリー・メインウェアリング(Sir Henry Mainwaring)でした。
メインウェアリングはオックスフォード大学で学んだ知識人で、その後、捕鯨船の指揮官となりますが、やがて地中海や北大西洋で実質的な海賊活動を行うようになります。北アフリカのマモラを拠点として複数の船を率いていましたが、1616年、国王ジェームズ1世(James I)から恩赦を受けて海賊をやめ、その後は英国側に戻り、1618年にはナイトに叙されました。さらに海軍で経験を積み、1639年にはVice-Admiral(海軍中将)を務めています。彼は船や航海について体系的な知識を持っており、船乗りの専門用語を解説した『The Seaman’s Dictionary』も著しています。海賊についての論考まで残しており、海賊については文字どおり実体験を知っていた人物です。Navy Records Societyも、彼をジェームズ1世・チャールズ1世時代の「最も著名な上級海軍士官の一人」としています。そしてイングランド内戦では王党派につき、1646年、15歳のチャールズ王子がシリー諸島からジャージー島へ逃れる際にも同行していました。
英国の海軍史に関する歴史資料を収集・編集・出版している学術団体 Navy Records Society の『The Life and Works of Sir Henry Mainwaring』には、ジャージー島でメインウェアリングがチャールズに “the rudiments of seamanship” (航海術・操船術の基礎)を教えたことが記録されています。チャールズについても、この時期に「first lessons in seamanship」を受けたと書かれています。
また、セント・オービンズ湾(St Aubin’s Bay)では、ジャージー総督が所有していたガレー船(galley)を使って帆走していたとされています。更にチャールズは、自分専用の船まで手に入れます。フランスのサン・マロ(Saint-Malo)で建造された船がジャージー島へ到着したのは、1646年6月8日のことでした。記録では、この船はピンネース(pinnace)と呼ばれています。
当時のピンネースという言葉は、特定の船型を厳密に示すものではありませんが、この船について残された記録を見ると、前後に細長い船体を持ち、12対、24本のオールと2本のマスト、2枚の帆を備えていました。さらに船尾にはクッションを備えた座席が設けられ、船には王子の紋章も描かれていたといいます。帆だけで走る船ではなく、風がなければ多数のオールを使って進むこともできる船だったわけです。現在のセーリングヨットとはかなり姿が違いますが、単なる移動用の手漕ぎボートとも違い、帆走するための装備を持った本格的な船でした。

残念ながら、このチャールズのピンネースそのものを描いたと確認できる絵や図面は、現在のところ見つかっていません。そのため正確な姿までは分かりませんが、残された記録から想像すると、細長い船体に多数のオールを並べ、そこに2本のマストと帆を備えた船だったと考えられます。(上の画像は、当時の情報を元にしたイメージ画像です)
まだ16歳になったばかりの少年が、自ら舵を握り、航海術を学び、湾内で帆走し、さらに自分専用の帆走艇まで持っていた。
後に「ヨット好きの王」として知られることになるチャールズ2世ですが、船を操ることへの興味は、すでにこの少年時代から始まっていたようです。
オランダへ渡った王子
1648年、18歳になったチャールズはオランダへ渡ります。この頃、英国では再び王党派と議会派の戦いが激しくなっていました。そして陸上だけでなく、海の上でも大きな動きが起こります。
議会派の海軍に所属していた艦艇の一部が反乱を起こし、王党派側についたのです。しかし、議会派から離反した艦隊が、そのまま英国の港にとどまることは困難でした。議会派海軍による攻撃や艦艇の奪還を避けるため、王党派となった艦隊は北海を渡り、オランダの軍港 へレフートスライス(Hellevoetsluis)へ向かいます。
彼らがオランダを目指したのは理由がありました。オランダには、チャールズの姉メアリー・ステュアート(Mary Stuart)が暮らしていました。メアリーはオランダのオラニエ公ウィレム2世(William II)と結婚しており、英国のステュアート王家とオランダのオラニエ家は婚姻によって結ばれていたのです。さらにヘレフートスライスは、北海へ通じる重要な軍港でもありました。
ただし、オランダ共和国全体が英国王党派を支持していたわけではありません。オラニエ家はステュアート家と近い関係にありましたが、英国との通商を重視する勢力もあり、英国の内戦に対するオランダ国内の立場は一様ではありませんでした。
こうした状況の中、チャールズも王党派となった艦隊と合流するため、フランスから海を渡ってヘレフートスライスへ向かいます。
そして1648年7月、チャールズは王党派艦隊と合流し、へレフートスライスを出航します。艦隊は北海へ出て英国東岸へ向かい、その後テムズ川河口周辺でも行動します。議会派の艦隊と対峙し、商船を拿捕するなど、実際の軍事行動を伴う航海でした。
16歳の頃にはジャージー島の湾内で船を操っていたチャールズですが、18歳になると、今度は内戦の只中で艦隊とともに海へ出ることになったのです。しかし、王党派が戦況を覆すことはできず、艦隊は再びオランダへ戻ります。
その後チャールズは、オランダの デン・ハーグ(The Hague)で過ごすようになります。そこには姉メアリーと、義兄であるオラニエ公ウィレム2世がいました。
17世紀のオランダでは、ヤハトは軍事や公務だけに使われる船ではなく、王侯貴族や裕福な市民たちによって移動や社交、そして楽しみのためにも使われていました。プレジャーボートとして船を楽しむ文化が、すでに存在していたのです。
自ら船の舵を握り、航海術を学び、自分専用のピンネースまで持っていた若いチャールズは、こうして18歳のとき、ヤハトが実際に使われているオランダ社会の中で暮らすことになったのです。更に、当時のオラニエ家はヤハトを所有していたという記録も残っています。
王になっても亡命はつづく
オランダで過ごしていたチャールズのもとに、大きな知らせが届きます。1649年1月30日、父である国王のチャールズ1世がロンドンで処刑されたのです。イングランドでは王政が廃止され、共和国が成立します。このときチャールズは、まだ18歳でした。
しかし、イングランドで王政が廃止されても、スコットランドはチャールズを国王として認めます。父の処刑から間もない1649年2月、チャールズはスコットランドでチャールズ2世として国王宣言されました。ただし、国王になったからといって、そのまま英国へ帰ることができたわけではありません。
スコットランド側との交渉が続き、ようやく1650年、チャールズはオランダを離れてスコットランドへ向かうことになります。ここでも、チャールズの人生に船が登場します。1650年6月、20歳になったチャールズは船で北海を渡り、スコットランドへ向かいました。航海の途中には議会派の艦隊に発見される危険もありましたが、その追跡を逃れスコットランド北東部に到着します。翌1651年1月1日、チャールズはスクーン(Scone)で正式に戴冠しました。
そして同年、軍を率いてイングランドへ進みます。しかし 9月3日、ウスターの戦い(Battle of Worcester)でクロムウェル率いる議会派軍に敗北。チャールズは再び追われる身となり、ここから約6週間にわたる逃避行が始まりました。
チャールズは身分を隠し、追手をかわしながら各地を転々とします。そしてようやく英国南岸のショアハム(Shoreham)から国外へ脱出する機会を得ます。そのとき彼を運んだのは、サプライズ(Surprise)という小さな船でした。
1651年10月15日、21歳のチャールズはサプライズ号に乗ってショアハムを出航します。そして翌日、フランス北部のフェカン(Fécamp)へ到着します。こうしてチャールズは、再び英国を離れて生活することになるのです。
その後も大陸各地で亡命生活を続けますが、1658年にオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が死去すると、英国の政治情勢は大きく動き始め、1660年、王政復古が現実のものとなり、29歳になったチャールズに、ようやく英国へ帰る機会が訪れたのです。
帰国の途でヤハトに乗る
1660年、チャールズはようやく英国へ戻ることになります。オランダ南部のブレダ(Breda)を出発し、モールダイク(Moerdijk)へ向かい、ここから先は水路を使って移動することになります。
モールダイクでチャールズを待っていたのが、オランダのヤハトでした。
このときチャールズが乗った船は、かつてオラニエ公のために建造され、その後ロッテルダム海軍本部(Admiralty of Rotterdam)が所有していたヤハトだったと、後世のヨット史では伝えられています。
1660年に刊行されたチャールズのオランダ滞在についての記録を引用した後世の資料によると、その一行には大小さまざまな船が加わり、その中には13隻もの大型ヤハトが含まれていたとされています。当時のオランダでは、こうしたヤハトが身分の高い人々によって、川や海を移動するためだけでなく、楽しむためにも使われていました。この航行の様子を描いた作品が、現在もアムステルダム国立美術館(Rijksmuseum/ライクスミュージアム)に残されています。
オランダを代表する海洋画家ウィレム・ファン・デ・フェルデ(父)(Willem van de Velde the Elder)が描いた『Royal Yacht and State Yacht Sail from Moerdijk with Charles II, King of England, on board, 1660』です。

この作品には、チャールズを乗せたプリンセンヤハト(Prinsenjacht/王子のヤハト)とステーテンヤハト(Statenjacht/国家・公用のヤハト)がモールダイクを出航する様子が描かれています。周囲には数多くの船やボートも見ることができます。
最後に…
英国を追われた少年チャールズが船を操ることに興味を持ち、シーマンシップを習得し、自分の船を持ち、やがてオランダへ渡りヤハトに触れ、英国への帰途につくまでを辿ってきました。
15歳で英国を離れたチャールズが、29歳までの間は亡命と逃避行の日々ではあったけれど、そこで様々な船(帆船)と出会い、そして自らも操船する楽しみを得ると共に、船を楽しむと言う事を知った14年間であったのではないでしょうか。
そして、サー・ヘンリー・メインウェアリング(Sir Henry Mainwaring)の存在も、興味深いところです。大学で学び、捕鯨船の指揮官、海賊、そして海軍の上級士官という異色の経歴を持ち、実際の海を知り尽くしていた人物から、まだ16歳のチャールズはシーマンシップを学びました。
この経験が、その後のチャールズの船への関心にどの程度影響したのかは定かではありませんが、この時期にメインウェアリングから直接船について学んでいたという事実は、非常に興味深いできごとです。
「ヨット文化の種」は、いよいよ海を渡って英国へ向かいます。




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