6. 英国へ渡ったヤハト

ヨットはどう変わってきた

1660年、約14年にわたる長い亡命生活を終えたチャールズ2世は、英国へ戻りました。

帰国を前にオランダに滞在していたチャールズは、そこで「ヤハト(jacht)」と呼ばれる船に乗り、その快適さを大変気に入って、自分も英国で造らせたいと口にするほど、ヤハトはチャールズの興味を引きました。

もっとも、彼が船に惹かれたのは、ヤハトが珍しかったからだけではなく、もともと船や航海への関心が強く、その興味は後の彼の行動にもたびたび現れます。

この頃のオランダでは、ヤハトはすでに特別な船ではありませんでした。要人の移動や公務に使われるだけでなく、船に乗ることそのものを楽しむ文化も既に生まれていました。港や水路にはさまざまなヤハトが行き交い、裕福な市民や有力者たちにとっても身近な存在になりつつありました。

海を隔てた英国では事情が異なります。英国にも小型の帆船はあり、船で遊ぶという行為がまったく存在しなかったわけではなかったようですが、オランダで「ヤハト」と呼ばれていた船と、その船を楽しむ文化のようなものは、まだ英国にはなかったようです。

そんな英国へ、オランダでヤハトに魅了された30歳のチャールズが国王として帰ってきます。

英国のヨット史の始まりともいえるこの時代に、チャールズとヤハトをめぐって何が起きたのか。ここから、その足跡を追っていきます。

オランダの「ヤハト」が英国に

1660年5月、チャールズ2世はオランダを離れ、英国へ帰国しました。その少し後を追うように、もう一隻、オランダから英国へ向かう船がありました。

アムステルダム市がチャールズ2世に贈ることを決めたヤハトです。

もともとこの船は、オランダ東インド会社(VOC)が建造していたものでした。それをアムステルダム市が購入し、新たに英国王となったチャールズへの贈り物としました。

ロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジ(Royal Museums Greenwich)に残る資料では、このヤハトがオランダを出発したのは1660年8月とされています。

チャールズが英国へ帰ったのは5月ですから、約3か月遅れて、彼がオランダで気に入ったヤハトが海峡を渡ってきたことになります。

オランダから届いたヤハト

1660年5月、チャールズ2世はオランダを離れ、英国へ帰国しました。

その少し後を追うように、チャールズがオランダで気に入った「ヤハト(jacht)」も、英国へ向かう準備を進めていました。

このヤハトは、もともとオランダ東インド会社(VOC)のために建造されていた船でした。アムステルダム市はこの船を購入し、英国王となったチャールズへの贈り物とすることを決めます。

もちろん、建造途中だった船をそのまま贈ったわけではなく、国王への贈答品にふさわしい船にするため、帆装や装飾、船内装飾などに手が加えられました。6月にアムステルダムのアイ湾(IJ)で行われた水上祝典を描いたファン・デ・フェルデ(Willem van de Velde)のスケッチには、このヤハトと考えられる船がスプリット帆装で描かれていますが、英国へ向けて出航する頃にはガフ帆装へ変更されていたと考えられています。

こうして艤装を整えたヤハトは、8月、英国へ向けてオランダを出航しました。

テムズ川に着いたヤハト

1660年8月15日。オランダからやってきたヤハトがテムズ川へ到着すると、チャールズは早朝の5時から船を見に出かけています。

このときチャールズは30歳。王政復古によって英国へ戻ってから、まだ3か月ほどしか経っていません。

この日のことを記録していたのが、当時27歳のサミュエル・ピープス(Samuel Pepys)です。ピープスは王政復古と同じ1660年に海軍委員会の高官となり、後に英国海軍行政で大きな影響力を持つようになる人物です。彼は1660年から約9年間に渡って詳細な日記を残しており、チャールズ2世時代の船や海軍、宮廷の様子を知る貴重な記録となっています。

ピープスの日記によれば、国王は朝5時にはロンドン橋より下流にいた「Dutch pleasure-boat(オランダのプレジャーボート)」を見に出かけ、そこで食事をしています。さらにピープスは、「国王は帰国して以来、早起きで周囲の者たちを疲れさせている」とも書いています。早朝の5時から、届いたばかりのヤハトを見に出かけているのですから、チャールズがこの船に強い関心を持っていたことがうかがえます。

このように、オランダでヤハトに乗り、その快適さを気に入り、「英国でもこのような船を使いたい」と話していたチャールズのもとへ、実際にその船がやってきたのです。

ヤハトは「Mary」と名付けられた

英国へやってきたヤハトには、Mary(メアリー)という船名が付けられました。

この船名は、チャールズの1歳年下の妹、メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート(Mary Henrietta Stuart)にちなんだものとされています。メアリーは以前の記事にも書いたように、オラニエ公ウィレム2世の妻です。

Maryはどんなヤハトだったのか

Maryは、全長66フィート(約20.1m)、最大幅18フィート(約5.5m)、100トン・バーデン(トン・バーデンは、当時使われた船の積載能力を基準とする大きさの表し方)と記録されています。さらに3ポンド砲を6門備えていました。

現代のヨット(セーリングクルーザー)と比べても決して小さな船ではありませんが、当時の大型軍艦などと比べれば、はるかに小型の船であることが言えます。

船体には、オランダで発達したヤハトらしい特徴が残されていました。喫水が浅く、船底は比較的平らで、船体の左右には「リーボード(leeboard)」を備えていました。

リーボードとは、船体の横から水中へ下ろす大きな板状の装置で、帆走するときに船が横へ流されるのを抑える役割を持っています。必要がなければ引き上げることができるため、運河や浅瀬の多いオランダには適した仕組みでした。

つまり Mary は、英国王への贈答品として豪華に仕立てられただけの船というだけではなく、オランダの水域で実際に使われていたヤハトの特徴を持った船が、そのまま英国へ渡ってきたことになります。

「jacht」から「yacht」へ

そして、この船とともに注目したいものが、もう一つあります。それが、その呼び方です。

「yacht」という言葉のもとになったのは、オランダ語の「jacht(ヤハト)」です。

もともとのヤハトは、現在のように遊びやレースを楽しむためだけの船ではありませんでした。速く走ることを求められた小型の帆船で、追跡や連絡、要人の移動などに使われていました。

実は、この「jacht」に由来する「yacht」という言葉は、Maryが英国へやって来る100年以上前から英国でも使われていました。1550年代にはすでに記録があり、その頃は軽くて速い帆船を指す言葉として使われています。

つまり、チャールズのMaryによって「yacht」という単語が初めて英国で使われ始めたわけではありません。

変わっていくのは、ここからです。

オランダでは、もともと速く走るために生まれたヤハトが、やがて要人の移動に使われ、さらに船に乗ることそのものを楽しむためにも使われるようになっていました。チャールズが気に入ったのも、このような使われ方のヤハトでした。

そして1660年、Maryが英国王室に贈られ、チャールズ自身がこの船に乗るようになります。

ロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジ(Royal Museums Greenwich)は、Maryを英国の「first official royal yacht」、つまり最初の公式なロイヤル・ヨットとしています。

ここが、現在の「ヨット」へつながる大きな転換点です。

英国では以前から「yacht」という言葉は使われていました。Maryが英国に贈られたことで、オランダですでに始まっていた「船に乗ることそのものを楽しむ」というヤハトの使われ方が、英国王室にも持ち込まれました。

そして「yacht」という言葉も、速い小型帆船という従来の意味から、楽しむために乗る船という意味を次第に強く持つようになっていきます。

現在、私たちが「ヨット」と呼んでいる船につながる「yacht」は、ここから英国でその歴史を歩み始めることになります。

Maryはどう使われたかのか

Maryを手にしたチャールズは、このヤハトをどのように使ったのか。それについては、ロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジ(Royal Museums Greenwich)によると、チャールズはMaryを「pleasure and visits to the fleet」、つまり「自ら楽しむためと、艦隊を訪問するために使っていた」との記録があります。

これは、当時のオランダで使われていたヤハトの姿とよく似ています。国王が艦隊を訪ねたり、水上を移動したりするための実用的な船でありながら、目的地へ行くためだけではなく、船に乗ることそのものを楽しむこともできる。オランダでヤハトに魅了されたチャールズは、その使い方まで英国で始めたことになります。

ただ、Maryが英国へやって来たことで刺激を受けたのは、チャールズだけではなかったようです。

Maryに乗ったピープス

1660年11月8日、Maryが英国に到着してから3か月ほどが経った頃、海軍行政官のサミュエル・ピープス(Samuel Pepys)がMaryに乗船しています。

ピープスは Mary について、「これほど小さな船でありながら、これほど整っていて広いものは見たことがない」というほど、その造りを高く評価しています。

全長約20mの Mary は、大型軍艦に比べればはるかに小さな船です。それでもピープスが驚くほど、船内には十分な広さが確保されていました。

そして、この日 Mary をピープスと一緒に見ていた人物がいました。

王室の造船に携わっていた、50歳のピーター・ペット(Peter Pett)です。

ペットは代々王室の造船に携わってきた一族の出身で、自身もチャールズ2世の時代に王室艦船の建造を担った造船家でした。

このとき Mary を一緒に見ていたピーター・ペットは、このあとの意外な展開で重要な人物の一人となります。

最後に…

何故、チャールズ2世は船にこれほど強い関心を向けることが可能だったのでしょうか。

王政復古直後の彼は、現在の英国王のような象徴的な存在だったわけではありません。国王として政治に関わる大きな権限を持っていました。しかし、父チャールズ1世と議会との対立が内戦と国王処刑にまで発展した記憶は、まだ十数年前のことです。復位したばかりの彼にとって、議会との関係を無視して政治を進めることのできる状況ではありませんでした。

さらに、約14年にわたる亡命生活を終えて英国へ戻ったばかりです。国内の政治や宗教には、王政が廃止されていた11年間に生まれたさまざまな問題が残っていました。彼には、王政そのものを英国社会の中へ再び定着させていかなければならないという事情もありました。

しかし、王政復古で英国へ戻ってきたのは、政治を行う国王だけではありませんでした。

国王を中心とする宮廷生活も戻ってきました。

彼は音楽や演劇、科学などさまざまなものに興味を示し、自ら楽しむ国王でもありました。船も、そうした彼の強い関心の一つでした。しかも船は、単なる国王の遊びで終わるものではありません。

英国にとって海軍や船は国の力そのものに深く関わる存在です。そして海軍を統括するロード・ハイ・アドミラルには、弟のヨーク公ジェームズが就いていました。その下には王立造船所があり、王室や海軍の船を造る造船家たちもいました。

つまりチャールズにとって船は、自分が好きだから楽しむことができ、それでいて国王が関心を持つことにも不自然さのない世界だったのです。国王としての立場と、自分自身の楽しみ。その二つが無理なく重なるところに、船がありました。そんな王政復古直後の英国へ、彼がオランダで気に入ったヤハト、Mary が贈られてきたのです。

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