毎年、僕たち夫婦はタモリカップに参加している時期ですが、残念ながら今年春の閉幕宣言で10年間の歴史に幕をを閉じてしまいました。
昨年の横浜大会に参加した際、翌年(2019年度)の横浜大会はやらないという話を大会関係者から漏れ聞いていたので、てっきり横浜ベイサイドマリーナ地域の再開発絡みで別の場所でやるという事なのかと当時は思っていました。何処か代替地か今までやったことの無い地域での開催を検討しているものだと思っていましたが、そのようなインドメーションは全く無く、今年4月に突然の閉幕宣言がタモリカップ・ホームページで発信され、その希望も無くなってしまいました。
我が家がヨットを本格的にやるキッカケも、タモリカップの存在が非常に大きかったと思います。マリーナ主催のヨットレースとは規模が全く違い、まさに夏の終わりの風物詩的なお祭り騒ぎということで、日本にもこんなに楽しいヨットイベントがあるんだったら、日本のヨット界も捨てたもんじゃないなと思いヨットの世界に本格的に足を踏み入れたと言っても過言ではありません。
閉幕宣言があったものの、まだ信じることができない気持ちがあり、タモリさんのことだから、また何か姿を変えてやってくれるのではないかという、諦めの悪い憶測もしていましたが、今年6月下旬に「週刊女性PRIME」の発信でその真相が伝えられ、その内容を見て、なかなかそれも難しいということを正直感じました。
タモリ、毎年主催していたヨットレース大会が突然の閉幕! 本人が語ったその理由 [週刊女性PRIME]
そこで、今回はタモリカップ閉幕の真相から感じたことをまとめてみたいと思います。
タモリさんの気持ち
記事中では「フジテレビプロデューサーの金井尚史氏の存在」として書かれていますが、ヨット仲間にあり親友の金井氏を亡くしてしまったタモリさんの心のダメージは大きかった。
金井氏とタモリさんの出会いは1990年から2005年にニッポン放送で放送されたバラエティーラジオ番組「タモリ週刊ダイナマイク」と言われており、金井氏がまだラジオ番組ディレクターの頃だったそうです。二人はこの仕事をキッカケに意気投合し、その後は家族ぐるみのお付き合いになっていったそうです。当時タモリさんがヨット好きだと知って金井氏は内緒で小型船舶1級免許を取り、タモリさんを驚かせたりするほどで、タモリさん所有のヨットを金井氏に売り渡すなど、タモリさんにとって金井氏はヨット仲間であり大親友だったことが伺い知れます。
金井氏をヨットの世界に引き込んだのはタモリさんです。そんな彼と沼津のヨットレース(タモリさんの愛艇が係留してあった地域のヨットレース)に一緒に参加しているときに、今のヨット界は元気が無いから、何かヨット界を元気づけることをしたいね…なんて話をしたんでしょう。それが、沼津での最初のタモリカップにつながったと言えます。地元では定例のレースだった中にタモリさんが参加する回だけをタモリカップと言うようになったと言われていますが、そこにはタモリさんが参加することでいろいろとご迷惑をお掛けしているのではないかと、そのお礼の意味もあってバーキュー大会をタモリさんがするようになったのが発端だったと言われています。
この話が徐々に広がり、沼津にヨットが集まるようになったことから、タモリさんと金井さんは、この流れをヨット界を元気づけるイベントに成長させようと考えたのだと思います。沼津時代はタモリさんも自分のヨットで参加していたようですが、沼津から会場が横浜に移ってからは、タモリさんは盛り上げ役に徹して、自分がレースを楽しむことはありませんでした。当然、それは親友である金井さんも同じことで、大会運営に徹したわけです。
ですから、金井さんを失ったタモリさんとしては、金井さんの居ない中でのタモリカップの継続は、本意ではなかったと思います。記事の中でも、もう止めようという話があったと書かれているように、金井さんの居ない中での大会実施は、タモリさんにとってとても辛いものだったのでしょう。実際に参加して2017年大会でのタモリさんの様子は、今考えれば憔悴しきっていたのではないかと思えるほど、体調不良でそれまでのタモリさんのノリが無かった年でした。たまたま本当に体調不良だったのかもしれませんが、その裏側には、タモリカップを共に作り上げてきた金井さんを失ったという心の支柱を失ってしまったからこそ、体調不良になってしまったのではないかと思います。
大会運営の大変さ
規模が大きくなれば多額の費用だけでなく大会運営組織も大きくなります。大会資金の調達だけでなく大会全体のマネージメントも必要になります。こうなると単なる遊びの延長線というわけにはいきません。実際にタモリカップに参加された方ならご存知だと思いますが、近年のタモリカップの規模を考えるとレースやバーベキュー大会への参加費だけでは到底賄いきれない程の内容であることは、参加した誰もが解っていたことだとおもいます。大型ステージに本格的な音響機材、2000人分のテーブルや椅子、海上には本部船やレースを管理するボートの数々…。最後の横浜大会では181艇のヨットと2000人以上のバーベキュー大会参加者、富山大会でも51艇のヨットと2000人規模のバーベキュー大会を開催するのですから、レース管理のみならずイベント全体の安全管理やイベントの企画運営面に至る一切を考えると、それに係る人員数や経費は膨大なものです。それを全て金井氏が中心となって取り仕切っていたわけですから、彼の存在無くして開催に漕ぎつけることはできなかったでしょう。
2017年に金井氏は亡くなられたわけですが、その年のタモリカップは例年どおり開催されました。しかし、翌年の2018年大会ではタモリカップ本部船の代名詞であった「帆船みらいへ」の姿が無かったり、例年参加していたスポンサー企業が姿を消したり…という状況がありました。
スポンサーが付かなければ安全を担保できなくなる
タモリカップが草レースレベルなら、スポンサーや費用の事を気にする必要は全く無かったと思います。しかし、あまりに巨大なイベントになってしまったタモリカップの場合、その安全を担保することが難しくなっていたことは確かだと思います。
限られたレース海域に史上空前のヨットが集まりレースをするわけです。実際に参加した感想は、スタートは混乱状態でシビアにレース運営を行おうとするとなかなか成立しないような状態になっていました。ヨットレースに慣れているヨットばかりが参加していれば、それでも整然とレースが行われていたと思われますが、普段はヨットレースに参加したことの無いような人でもタモリカップには参加する、これこそタモリさんと金井氏が考えた形ではあっても、これを大きな事故なく運営するのは並大抵のことでは無かったと思います。
しかし、2018年の最後まで大きな事故やトラブルもなく終えることが出来たのは、以前の記事でも書いたように、やはりタモリさんの唱えた大会趣旨が参加者に浸透していたからだと思います。
週刊女性の記事の中でも大会プロデューサーの藤木氏はこう語っています。
「昨年は185艇が参加して、パーティーの参加者は2500人と、本当に大きなヨットレースになりました。レースをやめることは、タモリさんが昨年から話していました。タモリカップは10年間、大きな事故やトラブル、クレームもなくやってこれた。これは奇跡的なこと。それでタモリさんが“これ以上は、もういいんじゃないか。このまま何事もなく続くとは思えない。だから、10年のいい区切りにやめよう”と。あとはオリンピックも理由のひとつですね」
最後に…
タモリカップのようなヨットイベントは唯一無二のもので、代わりになるようなものは現在のところありません。タモリカップはタモリさんだったからこそ上手く行ったという考え方はあるかもしれません。しかし、このようなヨットイベントの将来性が十分にあることをタモリさんは証明したとも言えます。現在、日本ヨット連盟は、競技セーリングに対しての活動は様々なスポーツの競技団体同様に行っていますが、このようなファンセーリングに対しての活動は殆どありません。タモリカップの存在は、ヨットに興味の無い人たちにも、ヨットに振り向いてもらえるキッカケとなったばかりでなく、タモリカップのバーベキュー大会に行ってみたいからヨットレースにも参加したという人も少なくなかったと思います。また、海の活動に対して支援活動をしている日本財団も様々な活動に資金提供をしていますが、ファン・セーリングの分野ではタモリカップの富山大会に資金提供していた実績もあるのですから、セーリング連盟と日本財団、そしてヨット関連の事業者や愛好家の有志でタモリカップを再スタートさせるというような動きがあっても良いのではないかと思います。タモリさんがやったようなプロたちの手弁当で開催するのは難しいと思いますが、日本のヨット界を活性化させる、更に若い世代にもセーリングの楽しさを知ってもらうには、これ以上に良い象徴的なイベントは無いと思うのですが…
ヨットの競争ではなく、ヨットを楽しむ大会を瀬戸内海で開催してくれたら嬉しいと思います。