前回まで見てきたように、亡命生活を送っていたチャールズ(2世)は、オランダでヤハトという船に出会い、ヤハトに触れる機会やプリンセンヤハトに乗る機会を得ました。
1660年5月23日、チャールズはオランダのスヘフェニンゲン沖に停泊していた英国艦隊の旗艦「ネイズビー(Naseby)」に乗り込みました。そしてチャールズが乗り込むと、「ネイズビー」という船名が「ロイヤル・チャールズ(Royal Charles)」と改められたのです。
ネイズビーという船名は、1645年に起きた「ネイズビーの戦い(Battle of Naseby)」に由来し、この戦いでチャールズの父であるチャールズ1世率いる王党派は議会派に決定的な敗北を喫し、その後、王政は崩壊し、チャールズ1世は処刑され、息子のチャールズは長い亡命生活を送ることになったのです。その「ネイズビー」の名を持つ軍艦に、王政を復活させるため帰国するチャールズが乗ったわけです。
船名が変えられたのは、この一隻だけではありませんでした。英国艦隊ではほかの艦も改名され、王政復古を象徴する新しい名前が与えられていきます。そして「ネイズビー」は、自らが迎えに来た国王の名を冠した「ロイヤル・チャールズ」となって、英国へ向けて出航しました。
この帰国航海でも、チャールズは船に強い関心を示し、艦内や甲板を歩き回り、人々と話し、自らの過去について語った記録も残されています。
そして、1660年5月25日、チャールズはドーバーに上陸します。5月29日にはロンドンへ入り、チャールズ2世として王政復古の中心に立つことになります。
その頃オランダでは、チャールズがオランダを離れてわずか5日後の5月28日、アムステルダムで英国王となったチャールズへ贈るための一隻のヤハトを手配する話が動き始めます。
今回は、チャールズに贈られたヤハトとその後、つまりヨットの芽が英国で出始めるところを書いてみたいと思います。
アムステルダム市が動き出す
アムステルダム市がチャールズへ贈るために手配したヤハトは、既にアムステルダムで建造が進められていた一隻でした。
当時の記録によると、この船はオランダ東インド会社(VOC)からアムステルダム海軍本部に所有が移っていた船で、まだ完成していない建造途中の状態にありました。後にアムステルダム市公文書館の記録を調査したC.G. ’t Hooftによると、市が海軍本部から取得した「未完成のヤハト」の価格は、4,300ギルダーでした。
17世紀後半のオランダでは、非熟練労働者の年間賃金がおよそ300ギルダー程度だったとする研究があります。単純に比較すると、4,300ギルダーは約14年分の賃金に相当する金額です。また、当時のオランダ海軍の一般水兵の賃金は月10〜11ギルダーほどでした。仮に月11ギルダーとして計算すると、4,300ギルダーは一人の水兵の約32年半分の給与になります。
それでも、アムステルダム市が建造途中の一隻のヤハトを手配するために支払った4,300ギルダーが、決して小さな金額ではなかったことは分かります。
新英国王に贈るヤハトの艤装
アムステルダム市が手配したヤハトには、英国の新しい国王へ贈る船として、さらに豪華な装飾や艤装が施されていきます。
この船については、当時の会計記録が比較的詳しく残されており、どのような船に仕立てようとしていたのかをそこから知ることができます。
船の長さは72アムステルダム・フィート、船内の幅は19フィート10インチ、深さは8フィート。現在の単位にすると、およそ全長20.5m、幅5.7m、深さ2.3mほどの船でした。
船内には前後の客室があり、4つの寝台とベンチ、船長室、マスト付近には水先人のための区画、厨房、船員室と船員用の寝台なども設けられていました。
つまり、単に王を乗せて短い距離を移動するだけの小舟ではなく、王や随行者が船内で過ごすスペースと、それを操船する船員たちの生活空間を持ったヤハトとして造られていました。
そしてアムステルダム市は、この船を英国王への贈り物にふさわしい姿へ仕立てていきます。
船室の外側には金箔を使った装飾が施され、さらに当時の記録には、優れた画家たちに絵を描かせ、船を飾らせたことが記されています。
また、船尾には英国王室の紋章が大きく掲げられました。現在残されている絵を見ると、王室紋章と、それを左右から支えるサポーターが船尾上部の大きな部分を占めています。
船首に置かれたのは、ユニコーン(一角獣)の船首像でした。しかも、単に木を彫って造っただけではありません。艤装に関する会計記録には、船首像のために「鍛造した銅製の角」を用意したことまで残されています。
船尾には英国王室の紋章、船首にはユニコーン。英国へ到着してから王室の船らしく飾り直したのではなく、オランダにいる段階から、誰に贈られる船なのかが外観から分かる装飾が施されていたのです。

この船が造られていく様子を知るうえで、もう一つ興味深いものが残されています。オランダを代表する海洋画家ウィレム・ファン・デ・フェルデ(Willem van de Velde)が描いたスケッチです。そこには、英国王へ贈られるこのヤハトと考えられる船とともに、船上で作業する人々の姿まで描かれています。さらにオランダ語で「英国王へ」「アムステルダム市」と読み取れる書き込みも残されています。
しかし、残された会計記録と絵を合わせて見ると、一隻の建造途中だったヤハトに、アムステルダムの職人たちが手を加え、英国の新しい国王へ贈る特別な船へ仕立てていった様子が見えてきます。
100隻超のヤハトが集まった日
英国王へ贈るヤハトの艤装が進められていた1660年6月15日、アムステルダムでは大規模な水上祝典が開かれます。アムステルダムの港に広がるIJ(アイ)と呼ばれる海域には、100隻を超えるヤハトが集まりました。
この祝典の主役となったのは、チャールズの姉メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートと、その息子で当時10歳だったオラニエ公ウィレムでした。
チャールズ2世が英国王として復帰したことで、メアリーは英国王の姉となり、ウィレムは英国王の甥となります。(このウィレムこそ、チャールズ2世の後に英国王となるウィリアム3世です。)
アムステルダム市は二人を迎えるためにさまざまな歓迎行事を催し、その一つとしてIJで大規模な水上行列が行われました。
ここで、アムステルダム市がチャールズへ贈るために艤装を進めていたヤハトが登場します。記録によると、当時10歳のウィレムはこのヤハトに乗り、100隻を超えるヤハトからなる船団の中心となりました。
つまり、英国王へ贈られる前のヤハトに、その英国王の甥であり、後に自らも英国王となる少年が乗っていたことになります。この日の様子は、ウィレム・ファン・デ・フェルデ2世によって描かれています。現在、ロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジに残されているスケッチには、大小さまざまなヤハトや船がIJを埋め尽くすように描かれ、その中央には英国のユニオン旗を掲げた大型のヤハトを見ることができます。ロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジは、この中央の船について、アムステルダム市からチャールズへ贈られたヤハトである可能性が高いとしています。
さらに、この祝典を記録した別のスケッチも残されています。パリのプティ・パレ(Petit Palais)が所蔵するファン・デ・フェルデ2世のスケッチには、裏面に、この日のヤハトについての書き込みがあります。そこには、英国王へ贈られるヤハトに、王の姉であるメアリーと若いウィレムが乗っていたことを示す内容が記されています。
アムステルダム市が英国王へ贈るために手配し、職人たちが艤装を進めていた一隻のヤハトは英国へ渡る前に、100隻を超えるヤハトが集まるアムステルダムの大規模な水上祝典で、王族を乗せる船として使われていたのです。
しかし、この船が英国へ向かうのは、まだ約2か月先のことでした。
英国へ向け出航
6月15日の水上行列が終わっても、チャールズへ贈るヤハトの準備は続きました。
そして英国へ送り出されるまでの間に、この船にはもう一つ興味深い変化が起きています。帆装が、それまでのスプリットリグからガフリグへ変更されたのです。
スプリットリグは、マストの低い位置から帆の後方上部へ「スプリット(sprit)」と呼ばれる長い棒を斜めに伸ばし、それで帆を支える帆装です。17世紀のオランダでは非常によく使われており、当時のヤハトを描いた絵にも数多く登場します。これに対してガフリグでは、帆の上辺を「ガフ(gaff)」と呼ばれる桁で支えます。
では、なぜわざわざ帆装を変えたのでしょうか。
残念ながら、このヤハトをスプリットからガフへ変更した理由を直接説明した記録は見つかっていません。
スプリットリグの構造は比較的単純で、「ブレイル(brail)」と呼ばれるロープを使って帆をマスト側へたぐり寄せれば、帆を完全に降ろさなくても素早く風を抜き、帆面積を小さくすることができます。だからこそ、スプリットリグはオランダの内水面を走るさまざまな船で長く使われました。
ガフリグとの大きな違いは、長いスプリットが帆面を斜めに横切らないことです。帆の上辺をガフで支えるため、左右どちらから風を受けても、スプリットと帆の位置関係が変わるという問題がありません。さらにガフリグは、その後、ガフそのものをハリヤードで上げ下げし、帆を展開したり降ろしたり、リーフによって帆面積を減らしたりすることができる帆装へ発達していきます。

少ない人数で船を動かすこと、風が強くなったときに帆を減らすこと、必要なら帆そのものを降ろすこと。こうした「帆をどう扱うか」という操作性は、速さと同じくらい、ヨットにとって重要な要素になっていきます。
ただし、1660年のガフリグを現在のガフリグとまったく同じものとして考えることはできません。当時はスプリットとガフが並行して使われており、ガフにもさまざまな形式がありました。
興味深いのは、この変化が起きた時代です。
17世紀前半のオランダの小型帆船を描いた絵では、スプリットリグが圧倒的に多く見られます。ところが1650年代頃になると、ガフリグを備えた船も次第に描かれるようになります。
つまり、このヤハトが英国へ渡った1660年は、ちょうどオランダの小型帆船の帆装にも変化が現れ始めていた時代だったのです。
チャールズへ贈られるヤハトも、当初はスプリットリグでしたが、英国へ向けて出航する頃までにはガフリグへ変更されていました。
なぜ、この船にガフリグが選ばれたのか。
その理由を記した物は調べた限りではありませんが、オランダから英国へ、ヤハトという船が渡ろうとしていた、まさにその時に、その帆装にも変化が起きていたことは、「ヨットはどう変わってきたのか」を考えるうえで、とても興味深い出来事です。
そして1660年8月12日、艤装を終えたヤハトは、アムステルダムから英国へ向けて送り出されました。
最後に…
一隻のヤハトが、オランダを離れて英国へ向かいました。しかし、この船が英国へ渡ることの意味は、単に一隻の船が海を渡ったというだけではありません。
オランダでヤハトを実際に体験し、その魅力を知った人物が英国王となり、その後を追うように一隻のヤハトが英国へ渡る。
ここから、ヤハトと呼ばれていた船は英国でヨットと呼ばれ、そしてヨットの歴史の舞台が英国に移ります。
英国に着いたこの船をチャールズ2世はどう迎え、どう使ったのか。そして、オランダで育ってきたヤハトという船を、英国の人々はどのように受け入れていったのか。
ここから先、ヤハトからヨットへと新たな変化を始めます。
次回は、このヤハトが英国に着いてテムズ川へ入ってくるところから、その続きを追ってゆきたいと思います。





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