4. プリンスのためのヤハト(ヨット)

これまでの3話では、ヨット(yacht)の語源となったオランダ語の「ヤハト(jacht)」から始まり、オランダで生まれたヤハトの文化にチャールズが触れ、やがて英国へ帰るまでを辿ってきました。

その中で、ヤハトが速さや機動性を求められた実用的な船であったことや、17世紀のオランダでは、身分の高い人たちの移動にも使われ、さらに仕事や公務だけではなく、船に乗ることそのものを楽しむためにも使われるようになっていたことを見てきました。

そしてチャールズは、英国への帰国の途中にもヤハトに乗り、その船を「便利で快適」と評価し、英国へ帰ったらテムズ川でも同じような船を使いたい、という趣旨の言葉を残します。

ここまで、ヤハトがどのように使われ、その文化がどのようにオランダから英国へ渡ろうとしていたのかを追ってきました。では、チャールズが「便利で快適」と評価した当時のオランダのヤハトとは、実際にはどのような船だったのでしょうか。

その姿を知るために、1660年にチャールズが英国へ帰る際に乗った「Prinsenjacht(プリンセンヤハト)」です。

今回は歴史を追う足を止めて、「ヤハトという船」そのものに目を向けてみたいと思います。

チャールズが乗った 、Prinsenjacht を通して17世紀半ばのオランダのヤハトとは、どのくらいの大きさで、どのような姿をした船だったのかを詳しく調べてみたいと思います。

プリンセンヤハトとは?

チャールズが1660年に英国へ帰る際に乗った船は、当時の記録では「Prinsenjacht(プリンセンヤハト)」と呼ばれています。

ここで最初に整理しておきたいのが、Prinsenjacht という言葉です。

これは、現在のヨットのように一隻の船につけられた固有の船名というより、「プリンスのためのヤハト」という意味で使われた呼び方です。
では、この「プリンス」とは誰だったのでしょうか。

このヤハトは、オラニエ公ウィレム2世(Willem II van Oranje)のために、ロッテルダム海軍本部によって1646年に発注され、1647年に完成した船でした。

ここで少し分かりにくいのが、ウィレム2世は、ホラント、ゼーラント、ユトレヒトなど複数の州の総督を務めていましたが、プリンスだったのか?という疑問です。

当時のオランダは未だ王政ではなく、複数の州から成るネーデルラント連邦共和国、いわゆるオランダ共和国でした。総督は国王のような主権者ではないのですが、彼は総督でありながら軍事面を中心に大きな力を持ち、共和国の中でも非常に重要な存在でした。

一方で、ウィレム2世は「オラニエ公(Prince of Orange)」という別の称号を持っていたため、ウィレム2世は国王ではありませんが「Prince」であり、その彼のために造られたヤハトだから「Prinsenjacht」と呼ばれたわけです。

そして、このヤハトが完成した1647年からわずか3年後の1650年、ウィレム2世は天然痘により24歳という若さで亡くなり、主人を失った船となったことから、ロッテルダム海軍本部の所有となりました。

つまり、チャールズが1660年に乗った時には、すでにウィレム2世は亡くなって10年が経ち、船もオラニエ公個人のために使われるヤハトではなくなっていましたが、それでも当時の記録では、この船を識別する際に、かつてウィレム2世のために造られた「Prinsenjacht」として登場します。

では、1647年にオラニエ公のために特別に造られたこのヤハトは、普通のヤハトと何が違っていたのでしょうか。

次は、この船が造られた当時の記録から、その姿をもう少し詳しく見てみます。

オラニエ公のために造られたヤハト

このヤハトが造られたのは1647年です。

この船は、オラニエ公ウィレム2世が使用するための船として、ロッテルダム海軍本部によって建造されました。そして、この船について残されている記録を調べていくと、単に移動するためだけの船ではなかったことが分かります。

建造に関する会計記録には、船体を造った費用だけではなく、船を飾るために画家や彫刻家へ支払った費用まで残されています。なかでも興味深いのが、画家ヤコブス・デ・フィレールス(Jacobus de Vileers)に依頼された仕事です。記録によれば、彼は新しく造られたオラニエ公のヤハトにある2つの船室を風景画で装飾し、その仕事に対して1,500ギルダーが支払われています。

さらに彫刻家にも仕事が依頼され、船尾を中心にさまざまな装飾が施されました。

船尾にはウィレム2世のものと考えられるオラニエ公の紋章が掲げられ、その周囲には人物像をはじめとする豪華な彫刻が施されていました。

これほど詳しい装飾の記録が残っている一方で、この船の全長、幅、喫水などをまとめた建造時の図面や仕様書などは、現在確認できる限りの資料からは残念ながら見つけることができませんでした。

しかし、チャールズが乗った Prinsenjacht は、実際にはどのくらいの大きさだったのか、正確な数字が見つけられなくても、大体のサイズ感や船の仕様などの見当をつけることはできるのでは無いかと、更に追いかけてみると、その手掛かりになるのが、1660年にチャールズを英国へ送り出すために集められた13隻の大型ヤハトです。

その中で Prinsenjacht がどのような位置付けにあったのかを見ていくと、この船の大きさが少しずつ見えてきます。

プリンスのためのヤハトの大きさ

1660年、チャールズが英国へ帰るためにブレダを出発した際、その一行のために13隻の大型ヤハトが集められました。

この13隻のヤハトは、現代の量産船とは異なり、同じ形の船を揃えた船団ではありません。

オラニエ家が使用していたヤハトをはじめ、ホラント州、国家評議会、海軍本部、都市、有力者などが所有・使用するヤハトが集められ、チャールズやヨーク公、グロスター公をはじめとする一行が、それぞれの船に分乗していました。

その中でチャールズが乗ったのが、かつてウィレム2世のために造られた Prinsenjacht でした。しかも、当時の記録によると、この船は集まった13隻の中で最も大きなヤハトだったとされています。ここは、この船の大きさを考えるうえで重要な手掛かりになります。

つまり、同じ時代に造られた大型ヤハトには、寸法が残されている船があります。

たとえば1656年、オランダの全国議会にあたるスターテン・ヘネラール(Staten-Generaal)のために建造された大型ヤハトには、長さ58ロッテルダム・フィート、幅16ロッテルダム・フィートという記録が残っています。現在の単位にすると、長さ約16.5m、幅約4.5mとなります。この当時の記録による長さは、全長ではなくキールの長さだという説もあり、実際の長さはその15%ほど長いとの見解もあることから、全長はおよそ19m程度と考えられます。

そして、もう一つ非常に重要な手掛かりがあり、チャールズが Prinsenjacht に乗っている時、その船を気に入ったことを知ったアムステルダム側から、これとほぼ同じ大きさのヤハトがアムステルダムにあるという話が持ちかけられています。

この船については後に詳しく触れますが、詳しい現代の数値で記録が残っており、全長66フィート(約20.1m)、幅18フィート(約5.5m)、積載量100トンという大型ヤハトでした。

これらの記録を重ねていくと、Prinsenjachtの正確な寸法を断定することはできないものの、全長20m前後の大型ヤハトだった可能性が高いと考えることができます。

オランダ独特の船体

Prinsenjacht の大きさが見えてきたところで、次に船体の形を見てみましょう。

当時のオランダのヤハトを描いた絵を見ると、現代のセーリングヨットとはかなり違った姿をしています。

最も大きな特徴は、幅の広い船体と、浅い船底です。これは単なる当時の流行ではなく、オランダという土地の水路事情と深く関係しています。

オランダには河川や運河が縦横に張り巡らされ、当時の重要な都市の多くが水路によって結ばれていました。一方、その水域には水深が浅い場所も多くあります。Prinsenjachtも外洋だけを航海するための船ではなく、実際にチャールズを乗せた1660年の旅でも、モールダイクからドルドレヒト、ロッテルダム、デルフスハーフェン、オーフェルスヒーを経てデルフトへと、河川や水路を使って移動しています。

こうした場所を自由に航行するには、船底から深く伸びるキールを持つ船より、喫水を浅くした船の方が都合がよかったわけです。しかし、帆船の船底を浅くすると、帆に横から風を受けたとき、船が風下へ流されやすくなります。現在のヨットでは、水面下に深く伸びるキールが抵抗となって横流れを抑えますが、浅い水域を走るオランダの船では、そのような深いキールを持つことができないため、船体の左右にはリーボード(leeboard/オランダ語ではzwaard)というものが取り付けられています。

Prinsenjacht を描いた当時の絵でも、船体側面に大きな板状のリーボードを見ることができます。

帆走するときには、基本的に風下側のリーボードを水中へ下ろします。すると水中に入った板が、現在のヨットのキールやセンターボードのように横流れを抑える働きをします。反対側のリーボードは引き上げておくことができます。

つまり、浅い水域を走るために船底を浅くする。
その代わりに、必要なときだけリーボードを水中へ下ろして横流れを抑える。非常に合理的な仕組みです。

全長20m前後と考えられる幅広い木造船。その船体は浅い水域を航行できるように造られ、左右には大きなリーボードを備えていました。

どんな帆で走っていたのか

17世紀半ばのオランダのヤハトは、基本的に1本マストを中心とした帆装でした。

そして、Prinsenjacht が造られた1647年からチャールズが乗った1660年という時期は、オランダのヤハトの帆装が変わろうとしていた時代でもあったようです。

初期の大型ヤハトでは、スプリットセイル(sprietzeil)と呼ばれる帆が使われていました。

これは四角形に近い帆を、マストから斜め上方へ伸ばした長い棒「スプリット(spriet)」で張る帆装です。現在のヨットでよく見るブームとガフで上下から帆を支える方式とは異なり、帆を斜めに横切るようにスプリットが伸びています。

ところが17世紀半ばになると、この帆装が変化していきます。

Fries Scheepvaart Museumの船舶資料によると、1660年頃からスタンディング・ガフ帆装(staand gaffeltuig)へ置き換わっていったと記されています。それに伴い、スプリット帆装で使われていた比較的短いマストも、トップマストを備えた、より長いものへ変わっていきました。

つまり、チャールズが Prinsenjacht に乗った1660年は、まさにその転換期にあたります。

では、チャールズが乗った Prinsenjacht そのものは、どちらの帆装だったのでしょうか。

Prinsenjacht は1647年建造ですから、建造年代だけを見ればスプリット帆装だった可能性があります。

幸い、この船についてはウィレム・ファン・デ・フェルデが1660年の姿を描いた図像が残されています。Rijksmuseumにも、PrinsenjachtとStatenjachtがモールダイクにいる場面や、そこから出航する場面が所蔵されています。

いろいろな絵を確認してみると、どうやらスプリット帆装だったようです。

「便利で快適」だった船内

この船にはもう一つ大きな特徴があります。それが、船の中に、きちんと造られた居住空間があったことです。

Prinsenjacht の建造記録には、船内について非常に興味深い記録が残っています。

1646年12月21日、ロッテルダム海軍本部は画家ヤコブス・デ・フィレールス(Jacobus de Vileers)に、新しく建造中だったオラニエ公のヤハトの装飾を依頼し、まず250ギルダーを支払っています。そして翌1647年6月24日には、さらに1,250ギルダーが支払われました。その理由として記録されているのが、船内にある2つの部屋を風景画で装飾する仕事が完成したことでした。

つまり、この船には少なくとも2つの独立した船室があり、その壁面にはわざわざ画家を雇って風景画が描かれていたことになります。

もともとヤハトは、速さや機動性を生かして人や情報を運ぶ実用的な船として発達してきた船です。しかし Prinsenjacht では、単に「雨風をしのげる船室を設ける」というところから、さらに先へ進んで、船内で過ごす時間そのものを、快適で格式のあるものにしようとしていたことがこのことから分かります。

更に、船尾を見ると、その理由も想像しやすくなります。

Prinsenjacht には、船尾にパビリオン(paviljoen)と呼ばれる、船室を収めた屋根付きの上部構造が設けられていました。当時のファン・デ・フェルデの絵や素描を見ると、船尾には窓が並び、その上や周囲にはオラニエ公を示す紋章や人物像などの豪華な彫刻も施されています。

外から見ても、このパビリオン部分に設けられた2つの船室が単なる作業スペースではなく、この船の中でも特別な場所だったことが分かります。

各船室の正確な広さや用途、どちらに寝台があったのか、テーブルや椅子がどのように配置されていたのかなどについては、確認できる資料はありませんでした。なお、一般的な Statenjacht では、乗客用空間、寝台、船長室、などかなり明確な区画が存在していたので、Prinsenjacht にもそのような区画も存在したと想像できます。

それでも、チャールズがこの船に実際に乗ったとき、“convenient and comfortable”「便利で快適」と感じた理由の一端は、ここにあったのかもしれません。

浅い水路を軽快に移動できる帆船でありながら、その船内には複数の船室があり、そこには風景画まで描かれている。

Prinsenjachtは、単に豪華な装飾を外から見せるための船ではありませんでした。「移動するための船」に、「船の中で快適に過ごす」という考え方が加わったヤハトだったのです。

そして、その考え方は船内だけではありません。

Prinsenjacht の外側には、オラニエ公が乗る船であることを示すために、さらに驚くほど豪華な装飾が施されていました。この装飾は、オラニエ公の Prinsenjacht としての権威を象徴しているわけです。

当時の Prinsenjacht が、当時最大で、しかも非常に豪華に造られた特別なヤハトだったことは間違いなさそうです。

最後に…

今回、Prinsenjacht という一隻を追いかけてみて一番興味深く感じたのは、この船が「豪華だった」ということではありません。

1647年という時代に、すでにヤハトという船に「快適に過ごす」という価値が持ち込まれていたことです。

ヤハトの始まりを辿ると、そこにあったのは速さや機動性でした。必要な人や情報を素早く運ぶ。そのために使われていた実用的な船です。

ところが Prinsenjacht まで来ると、それだけでは説明できないものが船の中に現れています。船室を設けるだけなら実用性の範囲です。しかし、その部屋をわざわざ画家に依頼して風景画で飾るとなると、話は違ってきます。

それは、船内を単なる移動中の待機場所ではなく、人がそこで時間を過ごす空間として考えていたということではないでしょうか。

ここまで来ると、ヤハトを見る視点も少し変わってきます。

「最初のヨットはいつ、どこで造られたのか」という一本の境界線を探すよりも、実用のために生まれた船に、少しずつ別の価値が加わっていく過程を見る方が面白いのかもしれません。

速く移動できること。人を乗せること。快適に過ごせること。そして、船に乗ることそのものに価値を見いだすこと。

その一つひとつが重なって、私たちが現在「ヨット」という言葉から感じるものに、少しずつ近づいていったのでしょう。

Prinsenjacht は「最初のヨット」ではありません。

しかし、この一隻を詳しく見てみると、17世紀半ばにはすでに、実用のためのヤハトの中に、後のヨット文化につながるものが確かに育ち始めていたことが見えてきます。

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