オランダで亡命生活中にヤハト(オランダ版ヨット)に乗ったチャールズ2世は、英国へ帰国した1660年5月には、自分たちでも同じような船を造ろうと計画を進めていました。
さらに1660年8月には、アムステルダム市からチャールズが欲しがっていたヤハト、Maryが贈られます。Maryがテムズ川へ到着した8月15日、チャールズは朝5時にはホワイトホールを出て、届いたばかりのMaryを見に行き、船上で食事までしています。
その後、英国でもヨットの建造が進み、1661年にはKatherineとAnneが姿を現します。
オランダからやってきたMaryに加えて、英国で新たに造られたKatherineとAnne。チャールズが帰国してから一年ほどの短い間に、英国には3隻のヨットが揃ったことになります。チャールズがオランダから持ち帰ったヨットの種は、英国で芽を出し始めていました。
では、実際にヨットを手に入れたあとのチャールズたちは、そのヨットをどう使ったのでしょう。現在なら、ヨットを手に入れれば海へ出て、セーリングをしてみるのは当たり前のことに思えます。しかし、英国ではまだ「yacht」という船そのものが登場したばかりです。
幸い、この時代にはチャールズたちの様子を伝える記録がいくつか残されています。そこからは、完成したばかりのヨットを、彼らがどのように使ったのかが見えてきます。
そして更に、これまでの3隻とは大きさも性格も異なる、オランダの別の船も英国に姿を現します。
今回は、英国に3隻のヨットが揃ったところから時間を進め、ヨットという船がまだ珍しかった時代に、チャールズ2世たちがこの新しい船をどのように使ったのかを追ってみたいと思います。

完成したヨットをテムズ川で試す
Maryが英国へやってきてから8か月ほどが経った、1661年4月16日。英国海軍の行政官で詳細な日記を残したサミュエル・ピープス(Samuel Pepys)は、ロンドン東部のテムズ川沿いにあるデプトフォード(Deptford)の造船所を訪れています。
そこでピープスは、国王チャールズ2世のために造船官ピーター・ペット(Peter Pett)が建造中のヨット、Katherineに乗っています。
ピープスは、この船を見て「とても美しいものになる」と日記に記しています。Katherineが正確にいつ完成したのかは、はっきりとした記録が見つかっていません。
同じころ、デプトフォードより少し下流のウーリッジ(Woolwich)では、チャールズの弟であるヨーク公ジェームズ(James, Duke of York)のAnneも建造されていました。
こちらには4月12日、内装や彫刻が完成していなくても進水させるよう、ジェームズから命令が出ています。どうして完成していない船を進水させろと、ジェームズは命令したのでしょう。
その理由を直接示す記録は見つかっていませんが、少し気になる出来事がこのあとに続きます。
Katherineも、この頃には進水したと考えられており、それからおよそ1か月後の5月21日。Katherineはすでにテムズ川を走っている記録が出てきます。しかも乗っていたのは、チャールズ2世本人です。
この日、ピープスがウーリッジやデプトフォードで仕事を済ませ、バージでテムズ川を上っていると、後ろから国王のバージが追いついてきました。
バージ(barge)とは、国王や王族、高官などがテムズ川を移動する際にも使った細長い櫂走艇です。多数の漕ぎ手(watermen)がオールで漕ぎ、屋根付きの客室や装飾を備えたものもありました。テムズ川がロンドンの重要な交通路だった時代の「公用車」に近い存在です。
そのバージに乗っていたのがチャールズでした。
チャールズは、それまでKatherineでテムズ川を下り、その後バージに乗り換えて戻ってきたところだったのです。
チャールズに何か公務があったわけではありません。ピープスは、その目的を「for pleasure, to try it」と記しています。「楽しむため、そして新しくできたヨットを試すため」です。
ついひと月ほど前まで造船所で建造作業をしていたKatherineを、チャールズはさっそくテムズ川へ出し、その走りを試していたことになります。
そして、この日の記録にはもう一つ興味深い話があります。
ピープスは、ピーター・ペットが造ったKatherineについて、オランダからチャールズに贈られたMaryよりも、さらにピーターの弟で造船官のクリストファー・ペット(Christopher Pett)がジェームズのために造ったAnneよりも「良いと聞いた」ことを日記に残しています。
ここには、誰が「良い」と言ったのかは書かれていませんが、チャールズは自分のKatherineだけに関心を持っていたわけではありません。まだ2隻とも建造中だった1月15日には、デプトフォードでKatherineを見たあと、ウーリッジで造られていたAnneも見に行っており、そんなチャールズが完成したKatherineを自ら試した時期に、3隻を比較する話がピープスの日記に登場します。
もしチャールズ自身がそう語ったのだとすれば、MaryやKatherineだけでなく、完成したばかりのAnneにもいち早く乗り、その違いを確かめていた可能性も考えられます。
そう考えると、ジェームズが4月12日に、内装や彫刻がまだ終わっていないAnneを早く進水させるよう命じたことも気になります。兄である国王のチャールズがAnneの出来を早く試したがっていた――そんな可能性も想像できるわけです。
確かなことは、3隻が揃って間もない時期に、すでに「どのヨットが良いのか」という比較が話題に上がっていたことです。
チャールズは出来上がったばかりのヨットを実際に走らせ、その性能を確かめながら、ヨットに乗ることそのものを楽しみ始めていたと考えることができるわけです。
Maryでテムズ川から海へ
チャールズ2世がKatherineをテムズ川で試してから3週間ほどが経った、1661年6月13日。
今度は、オランダのアムステルダム市からチャールズに贈られたMaryが動きます。
この日の様子も、海軍行政官のピープスが詳しく日記に残しています。
ピープスは朝、ロンドン中心部のホワイトホール(Whitehall)からバージに乗り、テムズ川を下ってデプトフォードへ向かいました。一緒にいたのは、ピープスの後援者でもあり、英国海軍の軍人としてチャールズ2世の王政復古にも大きな役割を果たした、サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー(Edward Montagu, Earl of Sandwich)です。
デプトフォードに着くと、ピープスとサンドウィッチ伯爵はMaryに乗り込みました。荷物が積み込まれるのを待ってからMaryは出帆し、サンドウィッチ伯爵を乗せてテムズ川を下っていきます。
出帆すると、船上では食事が始まりました。食事を終えたピープスは船室へ降り、そこで歌を歌ったことまで日記に残しています。
350年以上前のヨットで、テムズ川を帆走しながら食事をし、船室では歌を楽しむ。現在のヨット遊びにも、どこか通じるような光景です。
Maryはさらに川を下り、ロンドン中心部から東へ20kmほど離れたテムズ川沿いの町、エリス(Erith)付近まで進みました。
ここでピープスは、海軍軍人のフェラーズ船長(Captain Ferrers)とともにMaryを降り、小型の手漕ぎ船に乗り移ります。サンドウィッチ伯爵はMaryに残り、そのまま先へ向かいます。
ピープスたちがMaryから離れる際、サンドウィッチ伯爵は、Maryに積まれていた砲のうち、その場で装填できた5門すべてを撃たせています。当時の船では、出航や別れ、敬意を示す際などに礼砲を撃つことがあり、この5発もピープスたちとの別れの挨拶だったのでしょう。
Maryはサンドウィッチ伯爵を乗せたまま、テムズ川をさらに下っていきました。その姿を見送ったピープスは、「she went away very pleasantly」と日記に記しています。Maryが実に気持ちよさそうに走り去っていく――そんな姿がピープスには印象的に見えたのでしょう。
Maryが向かっていたのは、英国南東部のケント沖にある停泊地、ダウンズ(The Downs)でした。ダウンズはドーバー海峡に近く、外洋へ向かう艦船が集結する重要な停泊地です。サンドウィッチ伯爵は、ここから艦隊を率いて地中海方面へ向かう予定でした。
つまり、この日のMaryは、国王がテムズ川で遊ぶために使われていたのではなく、これから艦隊を率いて海外へ向かうサンドウィッチ伯爵を、ロンドンからダウンズへ送り届けるために使われていたのです。
しかし、単に人を送り届けるだけではありません。船上では食事をし、ピープスは船室で歌まで歌っています。移動そのものを楽しんでいた様子も、この記録から見えてきます。
では、この日チャールズは何をしていたのか。
エリスでMaryを降りたピープスは、小型の手漕ぎ船でテムズ川を上り、ロンドン方面へ戻っていきます。そして、ロンドン中心部からテムズ川を東へ10kmほど下ったグリニッジ(Greenwich)まで戻ったところで、もう一隻のヨットを見つけました。それは、国王のヨットです。
ピープスは、このヨットに乗せてもらおうと近づきました。ところが、そこにはチャールズ本人が乗っていたので、遠慮をしてそのまま通り過ぎています。
Maryがサンドウィッチ伯爵を乗せて海へ向かっていた、まさに同じ日、チャールズも別のヨットでテムズ川へ出ていたのです。
この日の記録を見ると、ヨットはすでに国王が楽しむだけの船ではなかったことが分かります。
チャールズ自身がヨットに乗ってテムズ川へ出る。そのすぐ近くでは、Maryがサンドウィッチ伯爵を乗せ、これから海外へ向かう艦隊の待つダウンズまで走っていく。英国にやってきたヨットは、楽しむためにも、人を運ぶためにも、実際に使われ始めていました。
王室周辺で良さが認められ始める
Maryがサンドウィッチ伯爵を乗せて海へ向かい、同じ日にチャールズも別のヨットに乗っていた6月13日。それから、わずか2日後の6月15日にも、ヨットを使うための準備が行われようとしていました。
この日の夜、ピープスのところへ、国王のヨットのパーサー(purser)がやってきます。パーサーとは、船に積む食料や物資などを管理する役目です。
用件は、すぐにヨットの食料を調達してほしいというものでした。理由は、翌日チャールズの弟であるヨーク公ジェームズが川を下る予定になっていたからです。
ピープスは、「for the Duke of York is to go down to-morrow」と日記に残しています。この記録で興味深いのは、ヨットに食料を積み込もうとしていることです。
数時間だけテムズ川を走って戻ってくるのではなく、ジェームズを乗せて出かけるための船として、食料まで準備しようとしていました。
ところが翌朝、ピープスは困ったことになります。ジェームズは予定を変え、前日の夜のうちに出発してしまっていたのです。ピープスはヨットに便乗させてサンドウィッチ伯爵へ荷物を届けてもらうつもりでしたが、そのあてが外れてしまいました。
ここまで、わずか数日の出来事です。
6月13日には、Maryがサンドウィッチ伯爵を乗せてダウンズへ向かい、同じ日にはチャールズ自身も別のヨットに乗っています。そして2日後には、今度はジェームズが川を下るために、ヨットへ食料を積む準備が行われていました。
英国にヨットが揃うと、チャールズたちはさっそく使い始めていました。
テムズ川へ出てその走りを楽しむ。人を乗せて海へ向かう。食料や荷物を積んで少し遠くまで出かける。
ヨットは、王室の人々にとって単に珍しいオランダ生まれの船ではなく、実際に使う船になり始めていたことが分かります。
最後に…
Mary、Katherine、Anneが使われ始めた1661年、実はチャールズたちのもとには、もう一隻のヨットが加わっていました。
オランダから贈られてきた Bezanです。
Bezanというのは、MaryやKatherineのような単なる船の固有名詞とは少し違います。当時のオランダには「bezaanjacht(ベザーンヤハト)」と呼ばれる小型ヨットのタイプがあり、Bezanという呼び名もそこから来たものと考えられています。
そして、この船はMaryとはかなり違う大きさでした。Maryが約100トンだったのに対して、Bezanは35トン程度(船の容積としてのトン)。長さ34フィート(約10.4m)、幅14フィート(約4.3m)、喫水3フィート6インチ(約1.1m)ほどの小型ヨットで、乗組員も4人だったとの記録があります。
誰がこのBezanをチャールズへ贈ったのかは、はっきり分かっていませんが、後世にはオランダ東インド会社(VOC)が贈ったとする資料もあり、VOCがチャールズ2世との関係を築くために贈ったとも言われていますが、それを確定できる記録は見つかっていません。
ただ、この船が1661年9月には英国に贈られてきていたことは確かなようです。
9月14日、海軍行政官のサミュエル・ピープスは、テムズ川へヨットを見に出かけています。
このときピープスが見たのは、「all the four yachts」4隻すべてのヨットでした。そして、その4隻について、「the two Dutch ones and the two English」オランダの2隻と、英国の2隻だったと記しています。
英国で造られたKatherineとAnne。そしてオランダからやってきたMaryとBezan。チャールズがオランダでヤハトに出会い、英国へ帰ってきてから、まだ一年あまりです。その間に、オランダから2隻がやってきて、英国でも2隻が造られ、チャールズは出来上がったヨットを自らテムズ川へ出して試し、Maryはサンドウィッチ伯爵を乗せて海へ向かい、ヨーク公ジェームズが川を下る際にもヨットは使われていたようです。
オランダでチャールズが出会った「yacht」という船は、英国へ持ち帰られてから一年ほどで4隻になり、王室周辺の人々が実際に乗り、楽しみ、移動する船になり始めていたのです。





コメント
今日もありがとうございます。
記事にわくわくしちゃいますね。。。
2013年、東京都美術館で”ターナー展”が開催されたときに見に行ってまいりました。
帆船もさることながら、テムズ川でセーリングを楽しむ姿の絵もありましたね。
時代はこのヤハトの話から100年ぐらいのちの事と思いますが、セーリングがすっかり定着していたんだろうと思います。
モネの絵にもよく出てきますね。