前回は、チャールズが15歳から29歳までの間に船に興味をもち、成長する姿を見てきました。
当時の彼の立場や情勢では、決してヨットを楽しむといったような感覚ではなかったのではないかと思いますが、純粋に船を操る楽しさを体験し、自由に船を操るためのシーマンシップを学び、亡命生活の中で逃避行を繰り返します。そして、ついに英国へ帰る時がきました。
オランダ南部のブレダから英国までの帰国道中を詳しく調べてみると、これまで見てきたオランダの「ヤハト」と、後に英国で始まる「ヨット」の歴史を考えるうえで、見過ごすことのできない出来事がいくつも残されています。
チャールズは、どのような旅をして英国へ帰ったのでしょうか。
今回は、当時の記録を辿りながら、チャールズがブレダを出発してから、14年ぶりに英国の地を踏むまでを追ってみたいと思います。
英国へ帰る旅が始まる
1660年5月24日、チャールズは約2か月を過ごしたオランダ南部のブレダを出発します。
15歳で英国を離れてから14年。亡命生活を続けてきたチャールズは、今度は国王チャールズ2世として英国へ帰ることになりました。当時の記録によると、チャールズがブレダを出発したのは午前10時ごろ。そして、この帰国の旅で最初に登場する船が、これまで見てきたオランダの「ヤハト」でした。
この日の様子を伝える『Hollandtse Mercurius』には、各地から集められた装飾されたヤハトによって、水面が埋め尽くされるような光景だったことが記されています。
チャールズ一行はブレダを出発した後、馬車でMark川沿いへ向かい、そこで待っていたヤハトに乗り、モールダイク(Moerdijk)へ向かいました。
モールダイクでは昼食をとり、その後もヤハトで旅を続けます。この時の様子は、オランダを代表する海洋画家ウィレム・ファン・デ・フェルデ(父)の作品にも残されています。
ライクスミュージアムには、プリンセンヤハト(Prinsenjacht)とステーテンヤハト(Statenjacht)がモールダイクに停泊している様子を描いた作品 と、チャールズを乗せた両船がモールダイクを出ていく様子を描いた作品が所蔵されています。そこに描かれているのは、ヤハトが一隻だけ浮かぶ光景ではありません。大小さまざまな船やボートが周囲を取り囲み、その中を2隻のヤハトが進んでいきます。そしてチャールズを乗せたヤハトは、さらにオランダの水路を進んでいきました。
ヤハトでオランダを行く
モールダイクで昼食をとったチャールズ一行は、再びヤハトでオランダの水路を進みます。
この時、チャールズが乗っていたのは、オラニエ公のために造られ、その後ロッテルダム海軍本部の所有となっていたヤハトで、1660年に刊行されたチャールズのオランダ滞在記録は伝えています。しかも、英国へ帰る国王を送るために集まったのは、この一隻だけではありませんでした。

当時の記録によれば、チャールズの周囲には13隻の大型ヤハトに加え、数え切れないほどのその他の船が集まっていたといいます。そして興味深いのは、その記録がヤハトについて、「身分の高い人々が、川や海を通ってある地域から別の地域へ移動するために、必要に応じて、また楽しみのためにも使う船」という意味の説明をしていることです。
チャールズは単に一隻のヤハトに乗っていたのではなく、ヤハトを移動にも楽しみにも使っていた、当時のオランダの船文化を実際に体験しながら進んでいたことになります。
モールダイクを出た一行は、ドルドレヒト方面へ向かいます。その後、現在のアイセルモンデ付近で約2時間停船しています。岸辺にはオレンジ色の飾りを身につけた市民兵が並び、40門の大砲とマスケット銃による祝砲が続いたと記録されています。
さらにヤハトはマース川を進み、ロッテルダムへ。この時の光景は、画家リーヴェ・ピーテルスゾーン・フェルスフイール(Lieve Pietersz. Verschuier)が描いた『1660年5月24日、英国王チャールズ2世のロッテルダム到着』に残されています。絵の中央に描かれているステーテンヤハト(Statenjacht)にいる人物がチャールズです。
周囲を見ると、大型の帆船、小型帆船、ヤハト、手漕ぎ船など、実にさまざまな大きさの船が水面を埋めています。ライクスミュージアムもこの作品を「さまざまな大きさの船やボートが浮かぶロッテルダム港」と説明しており、複数の船から祝砲が撃たれている様子も描かれています。
ロッテルダムを通過した一行は、そのままデルフスハーフェンへ進みます。ここでも川に浮かぶ船から祝砲が撃たれました。
そして、この日の船旅が終わったのはオーフェルスヒー(Overschie)でした。チャールズはここで一夜を過ごします。
翌5月25日、一行は再び水路を進み、デルフトへ向かいました。別の船舶史資料では、日の出とともにオーフェルスヒーを出発し、午前5時にはデルフトへ到着したとされています。デルフトでチャールズはヤハトを降り、その後は馬車でデン・ハーグへ向かいます。
つまりチャールズが帰国の途中でヤハトを利用したのは、5月24日にブレダを出発した後、ヤハトに乗船してから、翌25日にデルフトへ到着するまででした。
途中オーフェルスヒーで一泊していますから、ずっと船上にいたわけではありません。しかし、初日は午前中にブレダを出発してから夕方以降まで水路を移動し、翌朝も再びヤハトでデルフトへ向かっています。
チャールズは、英国へ帰る直前の2日間にわたり、オランダのヤハトに乗って移動していたのです。
そして、この船旅の途中でチャールズは、自分が乗っているヤハトについて、ある興味深い言葉を残しています。
「テムズ川にもこんな船を」
モールダイクからデルフトまで、オランダのヤハトに乗って旅をしたチャールズ。その船旅の途中、チャールズは自分が乗っているヤハトについて、興味深い言葉を残しています。
1660年に記録されたチャールズのオランダ滞在記を後世のヨット史が引用した記述によると、チャールズが乗っていたヤハトは、もともとオラニエ公のために造られ、その時にはロッテルダム海軍本部が所有していた船でした。チャールズは、このヤハトを「便利で快適な船」と評価したことが記録されています。
“convenient and comfortable”
さらに、同行していたオランダ側の代表者たちと話をしている際、「英国へ帰ったら、テムズ川で使うために同じような船を造らせたい」
“order one of the same style… for the Thames”
という趣旨の言葉を口にします。ここは、チャールズとヤハトの関係を考えるうえで、とても興味深く重要なポイントです。
オランダのヤハトは、もともと軽快に走ることのできる船として発達してきましたが、この頃には身分の高い人々が川や海を移動するための実用的な船であると同時に、船に乗ることそのものを楽しむためのプレジャーボートとしても使われていました。同じ記録にも、そのことが明記されています。チャールズは、それを知識として聞いたのではなく、自分自身がそのヤハトに乗ってオランダの水路を旅して体験したわけです。
ところが、この何気ないとも思えるチャールズの言葉を、すぐそばで聞いていた人物がいました。アムステルダム市長で、ホラント州の代表者の一人として同行していたコルネリス・ファン・フロースワイク(Cornelis van Vlooswyck)です。
ファン・フロースワイクはチャールズにアムステルダムには最近造られた、ほぼ同じ大きさで、少なくとも同じくらい立派なヤハトがあると伝えます。そして、そのヤハトをチャールズに贈りたいと申し出ました。記録では、チャールズは明確には受諾しなかったが、同時に拒否もしなかったとあります。まだ、この時点では、チャールズはオランダのヤハトに乗って英国へ帰る途中です。しかし、実際に乗ったヤハトを「便利で快適」と感じ、「テムズ川でも同じような船を使いたい」と口にしたことで、一隻のヤハトを英国へ贈るという話が、ここから動き始めることになります。
ファン・フロースワイクがチャールズにヤハトの贈呈を申し出た時、その船はまだチャールズに贈るための船として準備されていたわけではありませんでした。船上でのやり取りを受けて、ファン・フロースワイクはその内容をアムステルダム市当局へ伝えます。するとアムステルダムでは、実際にチャールズへ贈るためのヤハトを用意する話が動き始めました。
オランダでの最後の日
デルフトでヤハトを降りたチャールズは、馬車でデン・ハーグへ向かい、ここで約1週間を過ごします。滞在中は、新英国王として帰国するチャールズを迎える公式行事や宴会、外交上の会談などが行われ、英国へ向けた出発の準備も進められました。
1660年6月2日、チャールズはデン・ハーグを出発し、北海に面したスヘフェニンゲン(Scheveningen)へ向かいます。当時のスヘフェニンゲンには現在のような港がなかったため、チャールズは海岸からオランダの小型船「pink(ピンク)」に乗り、そこで家族やオランダ側の人々に別れを告げた後、英国艦隊を率いて迎えに来たエドワード・モンタギュー艦隊司令官の艦載艇へ乗り移り、沖合に停泊する旗艦「Naseby」へ向かいました。
ウィレム・ファン・デ・フェルデ(子)が、この日の様子を描いたスケッチを残しています。そこには小さな船に乗ったチャールズが、家族やオランダ側の人々に別れを告げる姿が描かれています。
そして、この1660年6月2日、15歳で英国を離れてから14年間。その亡命生活の中で何度も滞在し、ヤハトという船とその文化に触れたオランダを、チャールズはこの日、あとにしました。
最後に…
今回は、チャールズがブレダを出発してから、オランダを離れるまでの足取りを辿ってきました。
その帰国の旅でチャールズは、オランダのヤハトに乗り、水路を使って各地を移動しています。
そして、その船(ヤハト)を実際に体験したチャールズが、「英国へ帰ったら、テムズ川で使うために同じような船を造らせたい」という趣旨の言葉を残すほど、ヤハトを気に入ったことがわかります。
15歳で英国を離れたチャールズは、その後の14年間にさまざまな船と関わり、船を操ることを学び、そしてオランダでは、船に乗ることそのものを楽しむヤハトの文化に触れました。
チャールズは、オランダで経験した船とその文化を持って、いよいよ英国艦隊の船へと乗り移り英国へ帰ります。
チャールズが英国へ帰ったあと、何が起こり、オランダの「jacht」が英国の「yacht」へと変わっていくのか。それは、もう少し先の話です。
しかし、「ヨット文化の種」は、この時、確かに英国へ運ばれていきました。





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