7. 英国版ヨットのはじまり

ヨットはどう変わってきた

オランダ滞在中に「ヤハト(jacht)」に乗ったチャールズ2世は、その快適さを大変気に入り、英国へ戻ったらテムズ川でも同じような船を使いたいと周囲に話すほど、ヤハトに強い関心を持つようになりました。

その話を聞いたアムステルダム市から、後に帰国途中に乗ったプリンセンヤハトと同じようなヤハトが贈られ、チャールズはこの船を「Mary(メアリー)」と名付け乗り始めたことは、これまでに紹介してきた通りです。

6. 英国へ渡ったヤハト
1660年、約14年にわたる長い亡命生活を終えたチャールズ2世は、英国へ戻りました。帰国を前にオランダに滞在していたチャールズは、そこで「ヤハト(jacht)」と呼ばれる船に乗り、その快適さを大変気に入って、自分も英国で造らせたいと口にする...

しかし、チャールズと船との関わりは、オランダでヤハトに出会ったことから始まったわけではありません。亡命生活が始まった1646年、まだ16歳だったチャールズは、サー・ヘンリー・メインウェアリング(Sir Henry Mainwaring)から航海術や操船術の基礎を学び、自ら長時間舵を握り、やがて自分専用の小さな帆走艇まで持つようになりました。

2. ヨット文化の種
前回は、ヨット(yacht)の語源となったオランダ語の ヤハト(jacht)について、その歴史を辿り、オランダには現在のヨット文化につながるようなプレジャーボートの文化が、すでに存在していたことがわかりました。では、そのヤハトが、どのように...

それから14年の時が過ぎ、30歳になったチャールズはオランダ滞在中に何度かヤハトに乗り、今度は「英国でもこのような船を使いたい」と考えるようになります。

ヨットを楽しむ人の多くは、最初は誰かのヨットに乗せてもらい、扱い方や操船を覚え、経験を重ねるうちに自分の欲しいヨットのかたちが見えてきて、いつか自分のヨットを手に入れる。そんな過程をたどった人も少なくないと思います。

チャールズが歩んできた過程も、どこかそれと似通ったものがあります。

16歳の頃には、亡命生活の中で船に乗り、船を操ることに興味を持ち、シーマンシップを学び、操船そのものを楽しむようになった少年が、30歳になる頃には、それまでの経験から自分がどのような船に乗りたいのかを考えるようになっていました。

しかも今度は、16歳の亡命中の王子ではありません。英国へ戻るチャールズは国王です。自分が乗りたいと思った船を、実際に造らせることのできる立場になっていました。

そして、この頃のチャールズの近くには、船についてまったく別の立場から深く知る人物がいました。

船を造る人です。

英国でオリジナルのヨットを造ろうとする動きが、ここから始まります。

チャールズの近くにいた造船家

チャールズ2世とヨットとの関わりを辿っていくと、その節目には船について深い知識を持った人物が現れます。

16歳のチャールズに航海術や操船術の基礎を教えたのが、サー・ヘンリー・メインウェアリング(Sir Henry Mainwaring)でした。

そして30歳になったチャールズの近くには、今度は船を造ることを専門とする人物がいました。

ピーター・ペット(Peter Pett)です。

ペットは、英国で代々王室や海軍の船造りに携わってきた造船家一族の出身でした。父のフィニアス・ペット(Phineas Pett)も王室の船を手掛けた著名な造船家で、ピーター自身も若い頃から父のもとで造船に携わっています。1647年には、チャタム(Chatham)の王立造船所を監督する海軍の上級職、Commissioner(コミッショナー)の職に就きました。

チャールズが英国へ戻る1660年、ペットは50歳でした。

興味深いのは、二人の接点がチャールズの英国帰国前から確認できることです。1660年、王政復古が決まり、オランダにいたチャールズを英国へ迎えるための準備が進められていた頃、ペットもオランダへ渡っていました。

王政復古直前、ペットはスヘフェニンゲン(Scheveningen)へ赴き、チャールズへの謁見を許されています。さらに、チャールズの弟でロード・ハイ・アドミラル(Lord High Admiral=海軍卿)だったヨーク公ジェームズ(James, Duke of York)と、チャールズを迎えに来ていた英国艦隊との連絡役も務めていました。

ちょうどこの頃、チャールズはオランダでヤハトに乗り、「英国へ戻ったらテムズ川でも同じような船を使いたい」と話しています。

この話はアムステルダム市側にも伝わり、それが後にMaryとなるヤハトを贈る話へとつながりました。つまり、チャールズがヤハトを気に入り、英国でも使いたいと考えていることは、すでに周囲にも知られていたことになります。

チャールズ本人に謁見し、ヨーク公や英国艦隊との連絡にも携わっていたペットにも、この話を知る機会は十分にあったと考えられます。

ただし、ペットが実際にいつ、誰からその話を聞いたのか、あるいは、この時すでにチャールズとヤハトについて話をしていたのかを示す記録は、現在のところ見つかっていません。

後にチャールズのためのヨットを造ることになるペットは、チャールズがオランダのヤハトに強く惹かれていたこの時期に、すでに本人と接点を持っていたのです。

英国版ヨットの計画はいつ始まったのか

1660年5月、チャールズ2世はオランダを離れ、英国へ帰国しました。

オランダでチャールズに謁見していたピーター・ペットも英国へ戻り、チャタム王立造船所でコミッショナーの職を続けます。チャールズとペットの接点は、英国へ戻った後にも確認できます。

チャールズは帰国後にチャタム王立造船所を訪れ、造船所内部やそこに停泊していた艦船を見ています。この時、国王を迎えたのがペットでした。さらに同じ年の8月にもチャールズは再び訪れ、ペットのもてなしを受けています。オランダで謁見してから数か月の間に、二人は英国でも何度か顔を合わせていたことになります。

では、チャールズがオランダで乗ったようなヤハトを英国でも造ろうという話は、いつ具体的な計画になったのでしょうか。

実は、ここには記録の空白があります。

チャールズがペットに対して、いつ最初にヤハトの建造を指示したのかを示す記録は、現在のところ確認できません。そもそも、チャールズ本人からペットへ直接指示が出たのかも分かっていません。チャールズの弟で、海軍を統括するロード・ハイ・アドミラルだったヨーク公ジェームズを通じて話が進められた可能性もあります。あるいは、国王がオランダのヤハトを気に入り、英国でも同じような船を使いたいと考えていることを知った海軍や王立造船所側で、具体的な検討が始まった可能性も考えられます。

ただ、いつまでも計画の姿が見えないわけではありません。

1660年8月15日、オランダからMaryが英国へ到着し、それから2か月も経たない10月には、英国側で造ろうとしていたヤハトの姿が、記録の中にはっきりと現れます。

ピーター・ペットがヤハトの「Model」を作り、それをチャールズ本人に提示していたのです。しかも、チャールズはそのModelを見て、すでに承認していました。

(当時の造船では、船の設計や船型を示すために「Model」が使われていました。ただし、この記録にある「Model of a Yacht」が、どのような形で作られたものだったのかまでは分かっていません。)

10月12日、ヨーク公からペットへ出された命令書には、チャールズがペットから提示された「Model of a Yacht」を承認したことが記されています。つまり10月12日以前より、どのような船を造るのかが検討され、ペットによってModelが作られ、それをチャールズ自身が確認するところまで計画が進んでいたことになります。

ここで、もう一つ気になることがあります。

8月に英国へやって来たMaryと、ペットがチャールズに見せたModelとの関係です。ペットがMaryを見てからModelを作ったのか。Maryが英国へ到着する以前から、すでにModelの製作を進めていたのか。あるいは、計画自体は先に始まっていて、Maryの到着後にその実物を見ながらModelを仕上げたのか。

現在確認できる記録からは、そこまでは分かりません。確かなことは、チャールズが英国へ戻ってからわずか5か月ほどの間に、英国で造るヤハトはModelとしてチャールズの前に置かれるところまで具体化していたということです。

「国の名誉のために」

チャールズ2世が ピーター・ペットのModelを確認した後、英国で造られる新しいヨットは、いよいよ実際の建造へと進んでいきます。

1660年10月12日、ロード・ハイ・アドミラルだったヨーク公ジェームズからペットへ、ヨットを建造するよう正式な命令が出されました。

この命令書で興味深いのは、単に「ヨットを一隻造れ」と命じているのではなく、チャールズがすでにペットから提示された「Model of a Yacht」を承認していることを前提としている点です。つまり、ペットが考えた船をチャールズが確認し、その承認を受けて実際の船を造る段階へ進んだことになります。

さらに11月3日には、建造するヨットについて具体的な数字が記録に現れます。

予定されていた大きさは80 tons。建造費は1,335ポンドと見積もられました。この80 tonsという数字は興味深いものです。オランダから贈られたMaryは100 tons burdenと記録されています。トン数の算定方法や史料上の数字を単純に比較することには注意が必要ですが、少なくとも英国側がMaryとまったく同じ規模の船を造ろうとしていたわけではないことがここから分かります。

そして11月8日。ペットはサミュエル・ピープス(Samuel Pepys)とともにMaryに乗船しました。前回の記事でも紹介したように、ピープスはMaryの船内を見て、その小さな船体に対する造りの良さと広さに驚いています。

しかし今回注目したいのは、その後にピープスが日記へ残した言葉です。ピープスは、ペットがこのMaryを上回る船を造ることになっていると記しています。

そして、その理由を、

「for the honour of his country」(国の名誉のために)

と書きました。

この言葉をペット本人が実際に口にしたのか、それともペットとの会話を受けてピープス自身がそう表現したのかまでは、この日記だけでは分かりません。それでも、11月8日の時点で、英国で造られる新しいヨットがMaryと比較され、「それを上回るもの」として意識されていたことは非常に興味深いところです。

わずか半年前、チャールズがオランダでヤハトに乗った時には、「英国でもこのような船を使いたい」というところから始まった話でした。それが英国へ戻り、ペットによるModelが作られ、チャールズ自身が確認し、正式な建造命令が出る。

そして実際のMaryが英国へやって来ると、英国側には「この船を上回るものを」という意識まで現れてきます。

英国で始まったヨット造りは、この頃からチャールズが楽しむための船を造るだけではなく、英国の造船家たちが自らの技術を試し、その力量を示す場にもなっていったようです。

最後に…

オランダでヤハトに出会ったチャールズは、「英国でもこのような船を使いたい」と周囲に伝えました。

その希望を知ったアムステルダム市からMaryが贈られ、チャールズは英国でもヤハトに乗るようになります。

しかし、それだけでは終わりませんでした。

英国ではピーター・ペットによって新しいヨットの計画が進められ、Model がチャールズに示され、正式な建造命令が出ます。

そして、 Mary がオランダから英国へやって来てわずか数か月後には、ピープスの日記に「この船を上回るものを」という言葉まで現れます。

オランダでヤハトに乗り、「英国でもこんな船に乗りたい」と話し始まったチャールズの関心は、英国で自分たちのヨットを造り始めるところまで進みました。

英国でのヨット造りが、いよいよ始まります。

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