このブログを書き始めた時に、世界のスーパーセーリングヨットや更に巨大なメガセーリングヨットを日本の多くの方々にも知って頂きたと考えていたので、徐々に個別のヨットのことをご紹介しようと思っていました。その前哨戦として、昨年の12月に「世界最大セーリングヨットランキング」という記事をリリースしました。そこでランキングトップにご紹介したのが、今回ご紹介する”S/Y A”(セーリングヨット A)です。このヨットは、帆をもつセーリングヨット(帆を動力源とするヨット)の大きさランキングでは第1位ですが、ヨット全体(帆を持たないヨットも含む)ランキングでは第9位の大きさになります。大きなヨットは現代の造船技術では超大型客船同様に幾らでも大きく造ることができ、そこに目新さを感じることはありません。しかし、帆を動力源とした「いわゆる帆船」を現代に超大型で造るという事は、単なる大富豪の道楽だけでは済まない技術的ハードルがあります。つまり、このような新たな帆船技術のアプローチはこれからの造船技術的に非常に大きな意義あるものです。それは、営利企業である造船会社や船舶設計家がアイデアは持っていてもなかなかそれを実現できる機会はありまん。”S/Y A”は、その機会を与えるとともに、それ自体が新たな帆船技術開発のチャレンジの場であったと言えます。

セーリングヨットA

そこで今回、世界最大のセーリングヨット『A』、別名 ホワイトパール “WHITE PARL” について、ちょっと深堀りしてみたいと思います。

S/Y A の最新技術

タイトルの”S/Y A”は、このヨットのスターンに書かれている船名です。S/Yは勿論、セーリングヨット(Sailing Yacht)を意味します。この現代の巨大帆船は、フランス人の Frenchman Philippe Starck の設計でドイツにある Nobiskrug という造船所で3年の歳月を掛けて建造されました。帆船として世界一というだけでなく技術面でも最高の技術が集約されたメガセーリングヨットです。全長142.81メートル、全幅24.88メートル、総重量は12,700トンで固定キールは吃水線より8メートル下にも達します。総セイル面積3747㎡で東京ドームのグランドの約1/4もの広さにあたります。8層のデッキにゲストルームが8室、6層目のデッキにはヘリコプターを収容することもでき、内部にはダンスルームなどもあり内装の多くは鏡面貼りだと言われています。総乗組員数は20人のゲストを含めた54人、デッキは総チーク貼りで3つのスイミングプールと水中のキールエンドの部分には水中を眺めることができる展望室があります。各種の操船やコントロールは全てタッチパネル式のハイテク制御システムになっており、セイルの上げ下げやアンカーの操作など全てを黒いガラス式のタッチパネルで操作可能としています。内部は赤道地域の高温から極地の零下の極寒までにストレスない船内環境を提供するエアーコンディショニングシステムなど並外れた快適さを提供する革新的な技術が導入されています。このメガヨットの建造費用は各種の最新技術の開発コストを含めておよそ500億円を超えるとも言われ、このコストの多くは一般船舶向けに各種の技術特許をライセンスすることで回収される目論見であるそうです。

世界最大のカーボンコンポジット製マスト

このヨットで用いられた最新技術の中でも最も困難を極めたのが「自立型のカーボンコンポジット素材で造られた91mの高さのマスト」です。
この高さは神戸港にあるポートタワーの高さ(避雷針を除く)とほぼ同じで、世界中の帆船の高さで最も高く、当然のことながら製造コストも世界最高です。そんなマストをスタンディングリギン無しに自立式にするということだけでも難題ですが、要求される条件は自立型で90ノットの風速にも耐えることができるという超難題です。
このチャレンジにはオランダの Dykstra Naval Architects が設計を担当し、イギリスのMagma Structuresが製造を担当しました。カーボンコンポジット素材でこのサイズのマストを製造できるのは世界でこの会社だけで、要求強度は40Mn(40メガニュートン)、それに対して重さは1本あたり15トン程度というものです。この要求値はジャンボジェット機の翼が飛行時に掛かる負荷の2倍にも上り、長さは90メートルを超えるにも関わらず観光バス1台分程度の重さで造らなくてはなりませんでした。この難題をクリアするためには新たな製造技術の開発が必要でした。因みにジャンボジェット機の片側の翼の長さはおよそ32メートルですから、3倍近いサイズのものを継ぎ目なく、更に写真で見てわかるように少し湾曲した形で一体成型しなくてはならなかったわけですから、前代未聞のチャレンジだったと言えます。
セーリングヨットA

このチャレンジの背景

業務用船舶(客船や貨物船)の世界では、地球温暖化対策として重油の使用が地域的に禁止になったり、燃料の使用量に応じて税金(環境税)を課すなどの形で、船舶のエミッション規制(温室効果ガスの排出規制)が世界的に強化され始めています。その対応策としてエンジンの改良や排出ガスの改善などの技術開発が行われてきましたが、燃料自体に規制が入るようになった近年、燃料が不要な風の力を補助動力とした航海が再び注目され始めているのです。そのような背景から”S/Y A”は、それに対する造船技術の開発を目的にこのヨットを造ることで試作したとも言えるのです。その中でも軽量で強靭かつ超大型マストの開発は大型船には必須となることから、巨額の開発費を投じてこのようなマストと共にセイル制御システムを開発したわけです。

その他の新技術

“S/Y A”のハル(船体)はスチール製ですが、軽量化のためにデッキ上の構造物などはカーボンファイバーを組み込んだ素材が用いられ、デッキ上はオールチークデッキとなっています。

オールチークのデッキ
更に、”S/Y A”はモーターアシスト・セーリングヨットという新しいカテゴリーのヨットと定義されていますが、この「モーターアシスト」とは、電気を使って電気モーターを駆動させスクリューを回す電動モーターを推進動力源として持っています。電気は船内の生活設備や船の制御でも常に必要となることから、従来の発電機は電気の使用量に関わらず一定量の発電を行っているため、燃料も電気も無駄になっていました。”S/Y A”の発電システムは必要量のみを発電する最新式の可変発電システムを採用し、更に蓄電も行っています。これにより、燃料を使うのは発電機のみで、推進力としてのエンジンは搭載しておらず、電気モータを使用することで低エミッション化を実現しています。
風の力と電動モーターによる可変ピッチプロペラを自動制御することで、最大船速は21ノット、巡航で16ノットを実現しています。

遊び心を忘れないヨット造り

“S/Y A”は最新造船技術による試作と技術開発のフィールドテストを兼ねているとも言えますが、やはりそこはヨットですから遊び心も忘れてはいません。3つのスイミングプールや格納式のサンデッキはヨットの向きに関わらず楽しめるように両舷に準備されています。更に、スターンのスイミングデッキやヘリパッド(ヘリコプターの発着台)、ダンスホール、そして船底のキール最後尾に設けられた水中展望室など、やはり贅を尽くしたものになっています。

重さ2トンの極厚水中ガラス

船底のキール最後尾に設けられた水中展望室は、水深8メートルの位置にありますが、この部屋から水中をみるために3つの大きなガラス窓が取り付けられています。

船底のガラス窓
この楕円形のガラス窓を船底に取り付けるためには、ロイド船級協会の定める安全基準である「作動中の10倍の圧力に耐える」要件をクリアするために、鋼鉄製のタンクにこのガラス窓を取り付け、ドイツの南側の国境近くのBodensee にある水深が120メートルある穴にこれを沈め耐圧検査を実施したというエピソードがあります。
このガラスの厚みは30センチ近くもあり、重さは2トンもあるそうです。

このヨット専用にデザインされたテンダーボートたち

このヨットには開閉式のガレージの中にこのヨット専用にデザインされた4艘のテンダーボートが収められています。

以下の船名部分に写真リンクを張っていますので、ご覧ください。
SYA 1. このテンダーボートは、テンダーと言うには勿体ないパワーボートです。オーナー夫妻専用の10.7メートルのハイスピードボートで1930年代のボートをイメージしたデザインのカーボンファイバーボディーにヤンマーのエンジンを2基搭載し、トップスピードは平水で53ノットです。
SYA 2. こちらのテンダーボートも10.7メートルのエンクローズド・リムジンテンダーで、クルーの操船だけ外部で行うデザインになっています。荒れた海でもオーナーやゲストが濡れることなく移動が可能なスタイルのテンダーです。密閉型のキャビンなので、できるだけ船のローリングを抑えるジャイロスタビライザーが装着されています。
SYA 3. このグラステンダーはSYA 2.の天井が昇降式になったような形になっており、ゲストが周囲を見ながら航行できるようになっています。
SYA 4. このテンダーは11.7メートル、9.5トンのフルアルミハルのマルチハルテンダーで、ヨットクルーの移動や貨物の輸送など、ピックアップトラックのような使い方のできるテンダーです。マルチハルなので、船首側が油圧式ゲートで昇降し、ウォータージェット駆動で浅場や砂浜などにビーチングできるようになっています。チークデッキにはタイダウンユニットが付いており、様々な形の荷物を固定し安全に運べるようになっています。

最後に…

“S/Y A”はあくまでも個人のヨットなので情報が公開されていない部分も多く、情報も限られています。しかし、このセーリングヨットの出現はヨット界のみならず造船業界でも大きな話題となりました。最後の部分でご紹介したテンダーボートもフルクローズ型のテンダーが準備されているのは、造船業界関係者との商談等でマスコミの目を避ける目的もあるのではないかと感じます。
しかし、このヨットに招待された人々は非常に幸運だと思います。商談とはいえ、この贅を尽くしたヨットで数日をすごせるのですから…。このヨットのオーナーはロシア9番目の大富豪だそうですが、船籍はイギリスに置いているようで主に地中海方面にいるようです。中に入れなくても、本物のスタイリッシュな姿を後学のために一度は見てみたいものです。

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