ヨットを始めた頃のこと、知人のヨットクルーとして乗せて貰っていたけれど、徐々に慣れてきてヨットに対する気持ちが強くなると、もっといろいろなことが知りたい、基礎的なこと以外も知りたいという気持ちになってきました。僕は何事を始めるときにも、とにかく先ずは本から入るたちで、ヨットクルーとしてお誘いを受けた時にも、とりあえず一冊本を買って読んでみてから考えました。
今はAmazonなどで欲しい本が数日で読める時代ですから、ヨットにハマるにつれて、どんどん本を買い漁り、絶版となった古書にまで手を伸ばすようになりました。古書はかつてヨット全盛期だった頃のヨット書籍が数多くあり、話では聞いたことのある石原裕次郎さんが映画で演じた「太平洋ひとりぼっち」など、ヨットで海外を目指した人たちの著書も数多くあり、自分自身が海外を目指しているわけでは決してないのですが、本の中で世界旅行をヨットで楽しむことや、厳しい自然環境を乗り越えて目的地まで行くという疑似経験を本の中ですることができ、当時の若者もこういった本を読んで自分のヨットを手にする夢を見たんだろうなと思ったりしました。今よりも様々なものが不便で未成熟であった時代にヨットで海外に出るなんて、その頃のヨットマンの情熱がどれだけ凄かったかを思い知ることになりましたが、僕はそういった本を読むことで、ヨットを僕たち夫婦が持つにあたっていろいろなことを知ることができ、とても勉強になりました。そこで今回は、ヨットで世界を巡った日本人10人をご紹介したいと思います。
(書いていて、ちょっとながくなってしまいましたので、前後編に分けてご紹介します。)
Contents
1. 日本ヨット界のレジェンド 堀江謙一さん
外海を巡った日本ヨット界のレジェンドと言えば、堀江謙一さんです。
冒頭でも少し触れましたが、彼の著書「太平洋ひとりぼっち」は、初のオリンピックが東京で開催されることとなり急ピッチで準備が進む中、1962年に19フィートの小型ヨット「マーメイド号」で太平洋を単独無寄港で横断しアメリカのサンフランシスコに到達した最初の日本人です。
その後、1972年に「マーメイドⅡ」で世界単独無寄港東回り世界一周に挑戦しますが失敗。1973年に「マーメイドⅢ」でふたたび西回りで再挑戦し世界1周を(世界3人目)成し遂げます。1983年には4年間にわたる挑戦の末、初の縦回り世界一周。1985年には世界初太陽電池によるソーラーボート「シクリナーク」にてハワイ – 父島間の単独航海。1989年、全長2.8メートルの超小型ヨットにて単独太平洋横断。1993年、世界初足漕ぎボート(人力)でホノルルより沖縄まで単独太平洋横断。1996年、ソーラーボート(アルミ缶リサイクル使用)にて南米エクアドルから東京まで単独太平洋横断。1999年ビール樽528個とペットボトルのリサイクル素材で建造の双胴ヨット「モルツ・マーメイドⅡ」で単独太平洋横断。2002年ウイスキー樽、アルミ缶のリサイクル素材で建造した「モルツ・マーメイドⅢ」にて単独太平洋横断。2004年、アルミ缶(船体)とペットボトル(セイル)のリサイクル材を使った「サントリー・マーメイドⅡ」で東回り単独無寄港世界一周を達成(東回りでは世界2人目)、2008年には波の力だけを動力とする「SUNTORYマーメイドⅡ」を改造した波浪推進船(ウェーブパワーボート)でホノルル-和歌山を航海するなど、世界の海を何度も巡る数々の挑戦があります。
2. 日本ヨット界の超人 斉藤 実さん(酒呑童子)
日本ヨット界で齋藤さんの右に出る超人は未だ聞いたことがありません。
38歳のときに江の島のヨットクラブでディンギーからヨットを始め、50歳で仕事を完全引退すると、外洋ヨットレースに全てを賭け、ついに1988年から世界最高峰の単独世界一周ヨットレースであるBOCチャレンジ(アラウンドアローン)に3度連続で出場、1998年のレースでは史上最高年齢完走記録を更新(65歳)、2004年には71歳で単独無寄港世界一周(東回り)の最高年齢記録を達成させます。これらの功績に、2006年にはアメリカのニューポートヨット博物館に殿堂入り、2007年にはアメリカのクルージング・クラブ・オブ・アメリカのブルーウオーター・メダルをアジア人で初受賞します。
「Corinthian(コリント)セーラー」(Corinthianとはセーリングの初期の姿、最小限の装備による冒険的なセーリングを表す言葉)として世界のセーリングファンから賞賛を受ける斉藤実さん。欧米のヨット界は彼に「スピリット・オブ・アラウンド・アローン」の称号を与えており、これまでに合計で地球を単独で8周以上帆走した記録を持つ日本のみならず世界にけるヨット界の超人です。
B&G財団のWebページの注目の人のページに斉藤実さんについて詳しい話が紹介されています。
FAUST ADVENTURE GUILDの西回り世界一周成功のインタビュー記事が紹介されています。
3. 世界最小自作ヨットで世界一周 青木 洋さん(信天翁)
青木洋さんと言えば、日本のクルーザースクールとして有名な青木ヨットスクールの校長として有名ですが、日本人として初めて自作のヨット信天翁二世(あほうどり2せい)でホーン岬を超えて単独世界一周を成功。世界一周したヨットは全長6.3メートルと世界一周したヨットの中で世界最小としてギネスブックに登録されており、そのヨットは今も大阪府の万博記念公園に永久保存されています。
小さなヨットで何度も浸水、転覆、破損、修理を繰り返し、大波を受け転覆した時には死をも覚悟したそうです、何度もくじけそうになったにも関わらず、親や友人に励まされ世界一周を成し遂げたそうです。
4. 少年の時に描いた世界一周の夢を実現 藤村正人さん(希望号)
16歳の時に読んだ一冊の本がキッカケとなり、「ヨットを作り世界一周に出よう」と考えた藤村少年は自作でディンギーを作り先ずは姫路(兵庫県)から大阪へと300マイル帆走のみで旅することに挑戦します。その後、資金作りのために獣医となり働きながらヨット作り、31歳のとき5年間でのべ8000時間を要して長さ7メートルの希望号を完成させます。貧乏で苦しかったが目標があったから楽しかったとその時のことを語っています。スポンサーは無く、獣医として12年間の給料半分と夏冬のボーナスを一度も使うことなく、それを世界を巡る資金としました。ここまで着実に夢をかなえるだけに突き進んできた藤村さんが、世界一周へ船出する数か月前に知り合った女性と教会で結婚式を挙げたその日(1991年5月)の午後に姫路を出発します。これも計画通りだったのかは定かではありませんが、彼は16歳の時に描いた夢の第一歩を踏み出しました。
日本からハワイへ向かう途中に妻の妊娠が発覚します。途中出産で9カ月間はシングルハンド航海になるものの、南太平洋からニュージーランドで赤ちゃんと3人で旅を再開し、インド洋からスエズ運河を通り地中海に抜け、フランスから大西洋を横断しカリブ、フレンチポリネシアを経てタヒチで世界一周を達成します。その後、1997年5月に沖縄に入港し6年に渡る旅は終わりを迎えます。
最後に沖縄から姫路に希望号を持って帰れなかったエピローグが書かれていますが、糸満で嵐で沈んでしまった希望号は後に引き上げられてレストアされ、現在は長崎のパールシーリゾート内に展示されているようです。
ヨットを自作し限られた資金で夢を実現し、資金の尽きるところで帰国するというストーリーですが、藤村さんの一途な思い、少年の頃に夢見た世界一周クルーズを15年かけてコツコツ働きながら準備し、目一杯楽しんでいる様子が綺麗な写真と共に本には描かれています。写真に写る藤村さんと現地で知り合った人たちの最高の笑顔が印象的な一冊です。
5. 仲間と造った自作ヨットで太平洋横断 多田雄幸さん(オケラ3世)
新潟から上京しタクシー運転手をしていた多田さん、好きな音楽のJAZZ映画の中に映っていたヨットを見たことがキッカケでヨットに乗ってみることにしたそうです。当時(1967年)東京の多摩川でもディンギーに乗ることができたそうで、何度か乗っているうちに自分のヨットが欲しくなりFRP製のディンギーを購入、三浦半島の佐島ヨットハーバーに置いてセーリングやディンギーレースをを楽しんだそうです。当時、佐島には19フィートのクルーザーが係留されていて、いつかはこんな大きなクルーザーに乗ってみたいという気持ちが彼の中で膨らんでいったそうです。しかし、タクシー運転手にそんな資金は到底無く、この気持ちがクルーザーを自作することにつながって行きます。自作はたまたまクルーザーを高校時代から設計し自作していた斉藤茂夫さんとの出会いで始まります。斉藤さんたちが自作してたクルーザー造りを手伝う形で仲間入りし、完成した23フィートの木造クルーザー「オケラ1世」で仲間たちと伊豆大島などへ航海する中で外洋クルーザーの魅力にとりつかれ遊んでいるうちに、次々にヨットを自作します。31フィートFRPクルーザ「オケラ2世」1年後には新たな30フィートクルーザーの「オケラ3世」を自作します。彼らはこのヨットで伊豆大島や八丈島などへのクルージングを楽しんでいたそうです。そんな中、1975年に沖縄海洋博覧会が行われ、その記念レースとして「沖縄海洋博記念 太平洋横断シングルハンドヨットレース」が企画されます。先にご紹介した、堀江謙一さんなどの当時ヨット界で活躍している人たちが多数エントリーしていたのを見て、多田さんも参加してみたくなり自宅のマンションを売却し出場資金あて、自作仲間に頼みヨットを借りて出場します。そのために、オケラ3世をスタート地点のサンフランシスコまで廻航することとなり、油壷を1975年7月6日出港し46日間という日本新記録
とも言われる早さでサンフランシスコへ8月22日に到着します。1か月後のレースは無事4位でフィニッシュしますが、ここで先を走っていた「KATAHA」がゴール手前で座礁していたことを聞きこれを救援し修理まで手伝ったことが、シングルハンド世界一周ヨットレースであるBOCチャレンジに挑戦することにつながります。
(写真はサックス奏者の早坂紗知さんの個人ブログから拝借致しました。多田さんのエピソードが書かれています、併せてご覧ください。)
また、多田さんは海洋冒険家の白石康次郎さんの師匠でもあり、2度目のBOCチャレンジへの挑戦(1990年-91年)では、白石さんが多田さんの弟子としてサポート役として多田さんの挑戦を支えました。しかし、残念なことに多田さんはレース半ばで自ら命を絶たれてしまいました。
多田雄幸さんについては、ブログ「皆空の中で…」でも詳しく紹介されています。
前編の最後に…
前編では、先ず5人をご紹介しました。酒呑童子の斉藤実さん以外の4人は自作ヨットを使って世界の海に出て行かれた人ばかりです。
日本の初期のクルーザー乗りの多くが自作クルーザーでした。日本のヨット界は、このことを見ても決してお金持の優雅な遊びというわけではなく、ヨットと大海原に出て行く夢を持った若い青年がコツコツ自作したヨットで自分の夢を叶えていたことがよく解ります。戦中戦後直後の貧困に苦しむ時代ではありませんが、だからと言ってバブル時代のようにあぶく銭を掴んだ人というわけでもありません。皆、汗水流して懸命に働いた稼ぎを憧れのヨットのために注ぎ込んだのです。また、斉藤さんのように若いころは懸命に働き、早期で引退して自分の好きな人生を送るという人も居ます。
夢をもちそれに向かってがむしゃらに頑張って夢を叶えるなんて、今の時代にはちょっとダサいように思われるかもしれません。でも、そんな人たちが日本のみならず世界の海で活躍し評価されるなんて、私はとても素晴らしいことだと思います。
是非、彼らの著書、ちょっと古いものばかりですが、読んでみると若い人たちはこれからの人生の参考になるかもしれません。
タグ : セイリング, セーリング, セーリングクルーザー, ヨット, ヨットが好きな人とつながりたい, ヨットのある暮らし, ヨットの楽しみ方, ヨットを楽しむ