中国武漢で始まった今回の感染病、これだけ世界が開かれ、人の行き来が容易にできるようになった時代では、その感染拡大が一気に進むことは誰しも容易に想像できた筈だ。東京なら銀座や浅草、新宿などは、日本人の数より中国人観光客の方が多いのではないかと思うくらいに押し寄せていたし、日本人が興味を示さないような地方の観光地にも中国人ツアー客が押し寄せ、地方経済を押し上げていたのだから、日本は全国的に感染が急拡大すると想像していた。しかし、幸いにも日本は今のところ、欧米諸国のような事態には、まだなんとか陥ってはいないと言える。
緊急事態宣言が全国を対象に発令されたけれど、本当の意味での緊張感を感じている人は、まだ日本人の中には限られた人達だけではないかと思う。しかし、だからこそ、この幸運とも言える今の段階で僕たちは食い止める努力をしなくてはならないと思う。だから、”Stay Home” をこのブログでは呼び掛けたいとおもうのです。

しかし、一体この外出自粛はいつまで続くか解らない中、どうやって毎日を過ごせば良いのかと戸惑っている人は少なくないと思う。冬を終えて暖かくなり、桜が咲き、澄み切った青空を見ると、僕たちヨットマンは海に出たくなる。春の時には強風が吹く海にセイルを上げてセーリング(帆走)したくなる気持ちを抑えるのはとても大変なことだ。正直、僕も冬場に整備を終えた自邸を海に出したいって気持ちは、家に居ると大きくなるばかりだ。

しかし、ここは我慢だ。クールに我慢する。そして、狭い家をヨットに見立て、太平洋をいま横断しているんだって自分に言い聞かせ、限られた空間の中で自分が出来ることを考える。
何冊もの、太平洋横断の古い本を読み返すことで、頭の中でセーリングを空想し、家から出るのを我慢するのだ、それは、強風が吹き、時化た海を横断しているつもりで…。

…というわけで、
今回はそんな気分に浸ることができる太平洋横断記のヨット書籍を幾つかご紹介したいと思いいます。

リブ号の航海 小林則子

1975年に行われた「沖縄海洋博記念 太平洋シングルハンドヨットレース」に挑んだ女性ジャーナリストである著者の日本初の女性シングルハンド太平洋横断航海記です。彼女はビジネススクールを卒業後、アメリカの大手通信社であるAP通信社に入社後、オーシャンライフ誌の編集者を経て、オーシャンプレス誌に勤務するようになります。そこで上司から、このレースに出てみないかと言われたことから彼女の冒険は始まります。

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シングルハンドの外洋経験など無かった彼女、ましてや太平洋横断経験などあるわけがありません。そんなサラリーマン編集者である彼女がこのレースに出る経緯から、限られた予算で準備する様子、様々な人の手助けを受けスターに立つ姿。そして、サンフランシスコのスタートから沖縄までのゴールに至るまでの58日間が綴られています。
この本でちょっと面白い部分は、当時このレースに出場した面々について語られていることです。中でも「戸塚ヨットスクール事件」で一躍別の意味での有名人となった戸塚宏さんのことが出てきます。戸塚氏のヨット上での形相の凄さから当時「大王」(閻魔大王から取ったと思われる)と編集部の人たちは呼んでいた…。とか、当時人気のヨットデザイナーである武市俊さんのことを「自分の設計艇を走らせることにかけて魔術のようなものを持っている」と表現したりしています。他にも、堀江謙一さんや多田雄幸さんなど、当時のヨット界で脚光を浴びていた人たちが登場し、レースの様子以外に当時ヨットが活況だった頃の様子を垣間見ることができたりします。

走れ!サンバード 武市 俊

この本も「沖縄海洋博記念 太平洋シングルハンドヨットレース」出場したヨットデザイナー武市俊さんの”SUN BIRD Ⅵ”号での話です。武市さんは、当時ヨット設計家の第一人者である横山晃氏に師事し、ヨット設計家としての第一歩を踏み出します。また、小型外洋ヨットのクルーとして外洋経験積みます。1964年より数年間は造船現場で実践を積み、後に個人依頼による2隻の33フィート外洋ヨットの設計依頼から実艇設計で本格的にヨットデザイナーとしての活動を始めます。また、1969年、1971年の2度に渡り、シドニー・ホバートレース(オーストラリア・シドニーからタスマニア島ホバートまで628マイルを走るヨットレース)に出場、1973年にはイギリスより96フィートのシナーラ号の回航に携わった経験もあります。国内の主要な外洋レースにも数多く参加し、優勝経験も豊富な彼が、シングルハンドヨットレースに参加する話です。

この本では、レースに参加するキッカケから、自艇の設計からレーススタートまで準備期間のこと、そして、スタートからゴールまでの様子が綴られています。上に書いたように、武市さんの場合には、外洋経験は非常に多く積まれていますが、シングルハンドでの経験は無く、シングルハンドで外洋を渡るなんてバカバカしくて出来るかと公言した彼に、ヨット界の重鎮でもある”SUN BIRD”のオーナーでも山崎達光氏(公益財団法人日本セーリング連盟名誉会長、元エスビー食品株式会社会長)より「太平洋シングルハンドヨットレースに出てみないか」と話されたことから、このストーリーは始まります。

沖縄海洋博記念 太平洋シングルハンドヨットレース

このヨットレースは1975年に沖縄海洋博覧会の記念行事として行われ、9月22日午前6時にアメリカのサンフランシスコをスタートし、早ければ11月上旬に海洋博覧会会場である沖縄にゴールするという予定で計画された外洋シングルハンドヨットレースです。
当時、エントリーは8艇、「ウイング・オブ・ヤマハ(戸塚 宏)」、「オケラⅢ(多田雄幸)」、「サンバードⅥ(武市 俊)」、「タカハ(デビッド・ホワイト<アメリカ>)」、「メックス(クラウス・ヘフナー<西ドイツ>)」、「マーメイド(堀江謙一)」、「OC(ジャン・マリー・ビダール<インド>)」、「リブ(小林則子)」という顔ぶれでした。この中でも圧倒的優位に立っていたのは、ワークス体制を敷いて参加した「ウイング・オブ・ヤマハ チーム」で、戸塚氏のスポンサーとしての色合いよりも、ヤマハ・ヨットの今後を賭けた大切なレースとの位置づけで、当時最も勢いのあった戸塚氏へのスポンサードを決定したようです。
レース結果は、ヤマハ戸塚氏の41日間という太平洋横断最速記録で圧倒的勝利をおさめており、2位のサンバード武市氏との差はおよそ5日もありました。因みに、日本人勢は全員完走ゴールしています。
また、このレース以外に、沖縄海洋博関連では、同年10月スタートでハワイ~沖縄太平洋横断ヨットレースも同時に開催されました。

最後に…”Stay Home”

今回ご紹介した、沖縄海洋博記念 太平洋シングルハンドヨットレース関連の書籍ですが、私は未だ読んだことが無いのですが、実は優勝した戸塚宏氏の本も存在します。彼は、後に主宰する戸塚ヨットスクールでのスパルタ教育による体罰が原因で訓練生を死亡させたなどの罪で6年間服役したことで、表舞台から姿を消すことになります。しかし、それ以前の戸塚氏は、素晴らしいヨットマンであったようです。その姿を知らない世代である僕は、彼の名前がこれらの著書から出てきた時、とても意外ではありましたが、情熱溢れるヨットマンであったことは間違いない事実だったようです。

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このレースの話は1975年のことですが、まだ子供だった僕は、当時住んでいたアパートの隣室のご主人に自作のヨットに乗ってみないかと誘われたことがありました。当時、実際にお誘いをうけてヨットに乗っていたら、僕のヨットライフはもっと早く始まっていたのかもしれないな…なんてことを思い出しながら、僕はこれらの本を読みました。

新型コロナ騒動で外出自粛“Stay Home”のこの時に、太平洋横断を疑似体験しながら、これらの本を読んでみては如何でしょうか。

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