ヨットを始めて5年、ヨットブログをこうして書くまでになった。僕のヨットとの出会いは小学生時代にまで遡る。たまたま隣家のご主人がヨットマンで自作のコンクリート・ハルのヨットが完成したので乗りに来ないかというお誘いだった。大の乗り物好きの僕は二つ返事で乗りたいという気持ちだったが、両親に「乗りに行っていいか」と話をしてみると海に浮くヨットがコンクリート… と言うのが信じられなかったようで、危ないからと言う理由だけで乗りに行かせて貰えなかった。つまり、実際にヨットの姿を見たわけでもなかったけれど、僕の中に確実にヨットという物が引っ掛かっていたのは間違いない。そして5年前、たまたま知り合った方からヨットやってみないかとお誘いを受けた。当然、僕は二つ返事でお誘いを受けた。そこには何の躊躇も無かった。

凝り性の僕は、たった一度のヨット体験でヨットに恋してしまった。次に乗りに来いと言われるまでの、その間の長かったこと…。その間の時間を埋めるために僕がやったのは、1級小型船舶免許をとること、そしてヨット関係の本を読み漁ることだった。

もう一つ僕にはヨットに関するエピソードがある。それが、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジだ。2017年にソフトバンクのスポンサードのもと、出場したのは記憶に新しいが、僕にとってのアメリカズカップは、1992年、1995年、2000年に3回連続で挑戦したニッポンチャレンジが最も記憶に残っている。大々的なキャンペーン活動が展開され、テレビでも頻繁に放送されていたので、ここでアメリカズカップの存在やヨッティングに関して興味を持った人も少なくないと思う。僕も同様にヨットと言えば、まさにあの頃のアメリカズカップが最も強烈に記憶に残っている。

今回は、ヨットを語ってゆく上でアメリカズカップの話題は避けて通りることができないと、最近感じるようになったことから、アメリカズカップを自分の中で整理するために、記事にしておくことにします。尚、今回は第二次世界大戦前までのアメリカズカップの前半期について書いておきたいと思います。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

アメリカズカップとは

ヨット好きならアメリカズカップのことを知らない人はいないと思います。それほどアメリカズカップはヨットを語るうえで避けて通ることができない、世界で最も有名なヨットレースです。
アメリカズカップを別のジャンルで例えるなら、自動車の世界の「F1」、飛行機なら「エアレース」、総合スポーツなら「オリンピック」(ちょっと規模が違い過ぎるけれど、オリンピックの成立よりもアメリカズカップの方が古い)のようなもので、ヨットには興味が無い人でもその名前くらいは知っているという人は少なくない筈です。
その理由は、スポーツの世界でカップやトロフィーが優勝者に授与されるようになった起源がアメリカズカップだと言われていることや、1つのクラブが1851年から1983年までの132年間に渡り28回の挑戦に対して27回カップを保持し続けたことは、あらゆるスポーツの中で最長連勝記録であるからです。アメリカズカップはスポーツ界においても様々な面で「初めて行われた」という側面があるからこそ、ここまで有名なヨットレースになったと言えます。
また、アメリカズカップは個人の挑戦を受付けず、ヨットクラブ単位で挑戦することがルールに書かれていますが、実際には国の威信を賭けた戦いとも言われ、挑戦艇の製造には莫大な開発費を要し、チームの運営にも多大な経費が掛かることから、単なるヨットレース超越したビッグプロジェクトであるという事が言えます。

起源はロンドン万博

産業革命を経てイギリス(大英帝国)は当時の国力を諸外国に誇示するがごとく、1851年にロンドンで世界初の万国博覧会(万博)を開催します。また、海洋先進国として造船も得意としていたイギリスは高性能な帆船の製造でも世界をリードしており、これを諸外国に見せるためにも万博の記念行事としてイギリス南岸にあるワイト島を1周するヨットレースが企画されました。このヨットレースを主催するRYS(ロイヤルヨットスコードロン “Royal Yacht Squadron” :英王室公認のヨットクラブ )は、当時新興国であったアメリカのNYYC(ニューヨークヨットクラブ “New York Yacht Club”)に対して「ニューヨークのパイロットボート(水先案内用の帆船)をこのレースに参加させてみないか」という招待状を送ります。この招待状を受け、NYYCの会長である John Cox Stevens を含む5人のヨットクラブメンバーがこのレースに向けてシンジケートを結成し、既存のパイロットボートではなく新たな帆船(ヨット)を造りレースに挑戦しました。このアメリカの最新技術を投入した帆船(ヨット)は「アメリカ」と名付けられ、1951年4月1日に進水、それまで1度しかアメリカのヨットが大西洋を渡ったことが無かったにも関わらず20日間で無事にフランスのル・アーブルに到着し、7月31日にはイギリス海峡を渡りイギリスに到着したのです。ワイト島一周レースは1851年8月22日に開催され、イギリスから14艇、そしてアメリカから1艇の合計15艇で行われました。レースのコースはワイト島を時計回りに1周するものでした。

このように、アメリカズカップの起源となったワイト島一周ヨットレースは、世界初の万博の記念行事として開催され、更にこれが世界初の国際ヨットレースともなりました。

ニューヨークのパイロットボート

当時ニューヨーク港では、大型帆船を水先案内(パイロット)するのは、その大型帆船に最も速く到達した者が水先案内するということになっていました。つまり、スピードが出る小型帆船を用い、我先と入港してくる大型帆船に向かって行ったわけです。この様子を知っていたRYSはイギリス艇ならもっと早く帆走することが出来ることをアピールする目的でNYYCを招待したのでしょう。

アメリカの挑戦艇「アメリカ」

アメリカ号は全長 約101フィート(およそ31メートル)、全幅 約22フィート(およそ7メートル)、排水量170トン、セイル面積5263平方フィート(約490平方メートル)の最新型スクーナーでした。NYYCのメンバー6人によるシンジケートは、単にイギリスからの招待ヨットレースに参加するだけではなく、この時にイギリスに勝つことにかなり拘っていたことが新造船をわざわざ製作して挑戦するところや「アメリカ」という船名からも窺い知ることが出来ます。

NYYCメンバー5人のシンジケート結成

本来、ヨットクラブのメンバーは、個々がヨットオーナーであり自分のヨットを保有しています。しかし、クラブの威信を賭けて海洋先進国であるイギリスに挑戦する以上、個人の独力では限界あることや、先にアメリカから大西洋を渡ったことのあるヨットは1艇しかなかったこともあり、外洋にも強いヨットを造る必要があったのです。そこでクラブメンバー5人が共同してレース艇を造り出艇させること(当然のことながら勝つこと)を目的にシンジケート(大掛かりな挑戦艇組織)を結成するに至ったわけです。
以後のアメリカズカップでは、この最初に行われた方法に倣ってヨットクラブとして挑戦するというルールがあり、必ずシンジケートが結成されています。このような仕組みでヨットレースに挑戦するのも世界初であると言えます。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

ワイト島一周レースの結果

参加した15艇のヨットはスタートラインに一列に並び錨泊した状態で、スタートの号砲と共に錨を上げて帆走し始めるという当時のイギリスのヨットレースの慣例に従い、朝10時の号砲と共にスタートしました。アメリカ号は錨を上げるのに手間取ってしまいかなりの遅れをとり、最後尾からのスタートとなってしまいました。しかし、島の東端に差し掛かる頃には早くもイギリスの10艇を抜き去り、その後数マイル後には残りの4艇も抜き去り先頭に立ちます。アメリカ号はそのままトップを独走し、17時47分には島の西端のニードルズを回り、アラムベイで王室のヨットであるヴィクトリア&アルバート号に乗ったヴィクトリア女王の前を通過し、ゴール地点であるワイト島北端に20時37分にトップでゴールしました。その後8分差でイギリス艇のオーロラ号、53分後にバキャンテ号、1時間8分後にエクリプス号、日付が変わって深夜1時20分(アメリカ号ゴールから4時間33分後)にブリリアント号がゴールしましたが、残りの10艇は様々なトラブルなどでゴールすらできませんでした。

アメリカ号とイギリス艇の違い

イギリス艇の船型は船首が丸く細長い形状で昔ながらの複雑なリグとセイルプランでした。それに対してアメリカ号の船型は、船首が鋭く尖った形状で幅は広く現代に通じる船型になっており、更に簡単なセイルプランであることからリグも簡素で操船が簡便でした。また、セイルは風が当たると伸びてしまうリネンセイルをセイルの端で引っ張る方式を用いていたイギリス艇に対し、アメリカ号はミシンで繫いだ木綿のセイルをブームに固定するという形で風の力を逃がすことなく効率的に利用できるようになっていました。これらによって、アメリカ艇はどんな風に対してもイギリス艇を超越した帆走をすることができたのです。

アメリカ号が海洋先進国であるイギリスのヨット界に与えた影響は非常に大きく、アメリカ号がレース終了後アメリカに戻ることなくイギリスで売却されたこともあって、その後イギリスのヨットは全てアメリカに倣って造り替えられ、帆走技術もアメリカ人のやり方に改められたほど、アメリカのヨット技術は進んでいました。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

勝者に授与された純銀製のジャグ

ワイト島一周レースの勝者には「純銀製のジャグ(水差し)」(ヴィクトリア女王からの賜り物)が勝者の証としてRYSよりアメリカ号に贈呈されました。
この純銀製のジャグは高さ27インチ(約69センチ)の大きさ(上の水差しの部分だけ)でしたが、のちに台座などが追加され現在の形(トロフィー型)になっています。この純銀製のジャグの当時の製造原価が100ギニーであったことから「100ギニーカップ」とも呼ばれています。この純銀製の水差しのことを「カップ」と呼んでおり、「アメリカ号の(勝ち取った)カップ」と言う意味で「アメリカズカップ」”America’s Cup” と呼ばれるようになりました。
イギリス艇に勝利したアメリカ号は、アメリカに戻ることなくイギリスで売却され、カップだけがアメリカに持ち帰られました。持ち帰られたカップはNYYCの会長でシンジケートのメンバーでもあった John Cox Stevens の手元に置かれていましたが、1857年7月8日にシンジケートからNYYCに贈与されました。その時に、カップに付された手紙(贈与証書)に現在のアメリカズカップの憲法とも言われる以下のような内容が記されていました。

「いかなる国のいかなる組織のクラブであっても、そのクラブのメンバーの要請により、いつでも、このカップを目指したレースを行うことを要求する権利を有する。… カップはクラブ所有とし、クラブのメンバーや優勝艇のオーナーの所有するところなってはならない。そして、全ての国のヨットクラブが上述したレースに参加できるという規定は、このカップと共に永久に変わらないものであり、そのため、国家間の友好的な競争のための永久の挑戦杯とする。…レースはカップを保持しているディフェンダー(防衛クラブ)とチャレンジャー(挑戦クラブ)の1対1のマッチレースで行われる。」

これ以外にも、挑戦艇は自走にて回航してくることや、ヨットのサイズ、レース海域などについても記載されていましたが、現在は適宜の修正が行われ現在に至っています。

第一回アメリカズカップ

カップを奪われたイギリスの関係者やレースを主催したRYSの屈辱感は非常に大きく、何とかカップを奪還しイギリスの面子を取り戻さなければならないという機運が高まっていましたが、実際には最初のアメリカズカップが行われたのは、ワイト島一周レースから19年もの後の1870年となってしまいました。その裏側には1867年に行われた同レースにおいて、イギリス艇のカンブリア号がアメリカ艇のサフォー号をようやく(初めて)破ったからです。それまでイギリス艇はアメリカ艇に全く歯が立たず、ようやく勝利することができたことで自信を得て、アメリカズカップに初挑戦したというわけです。
そうして行われた第1回アメリカズカップでしたが、NYYCの最新艇マジック号がイギリスの挑戦艇であるカンブリア号を破ってカップを初防衛し、イギリスのカップ奪還は阻止されました。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

第二次大戦以前は米英対決だけだった

現代のアメリカズカップは、世界各国から集まったチャレンジャー選抜レースである「クオリファイヤーズ」とチャレンジャーを最終的に決定する「チャレンジャー・プレーオフ」により挑戦艇を1艇に絞ります。その後に本戦である簿防衛艇と挑戦艇の1対1のマッチレースである「アメリカズ・マッチ」が行われますので、挑戦者は予選を勝ち上がり、最終的には何処の国のヨットクラブが挑戦者になるかは、予選が終わるまでわかりません。しかし、第二次世界大戦以前のアメリカズカップではイギリスのカップ奪還のためだけのレースであったとも言えます。この裏側には、挑戦艇はレース開催地まで自走にて回航しなくてはならないというルールがあったことから、その他の国からの参加は非常に困難だったことが挙げられます。また、諸外国のヨットクラブも米英だけの対決だという理解だったこともあり挑戦するヨットクラブは出てこなかったわけです。また、起源となるワイト島一周レースにはアメリカから自走でやってきたアメリカ号が見事勝利しましたが、大西洋を渡ってニューヨークまでの外洋航海をする挑戦艇に対して、迎え撃つアメリカ側の防衛艇は外洋航海をする必要が無かったことから、沿岸レース向けの艤装を行うだけの仕様で造ることができたことから、外洋仕様と沿岸仕様ではその差は歴然としておりハンディキャップはあったものの防衛艇に非常に有利でした。

紅茶王トーマスリプトンと「Jクラス」

第二次世界大戦までにイギリスは1870年から1937年までの間に16回の挑戦を行い、船のサイズやセイルエリアを広げるなどで大型化の一途を辿り、最大で137フィート(約42メートル)のものまで出現しました。
1899年の第10回から5回もの挑戦をし続けた紅茶で世界的に有名な Sir Thomas Lipton(サー トーマスリプトン)は、1930年の第14回目の挑戦に際してアメリカズカップ史上初めてNYYCに対してユニバーサルルールの適用を求め、3ヶ月間の交渉の末に「Jクラス」を採用することにNYYCと合意しました。これにより同じレーティングでハンディキャップ(タイムアローアンス)無しのレースが実現することとなりました。

実のところ、リプトンにとって当初アメリカズカップへの挑戦は紅茶をアメリカにも広める商業的な目的で参戦していました。しかし、晩年事業から退いた後、彼は本格的にアメリカズカップを手にする(勝つことが)目的に変って行きました。そこで、1930年の挑戦に際してはユニバーサルルールを強く求めたわけです。Jクラス艇では以後、第二次世界大戦までの間にリプトンの1930年の挑戦を含むと3回のレースが行われました。しかし、リプトン自身は1931年に急死することで最終的カップを奪取することはありませんでした。

最後に…(第二次世界大戦以前のアメリカズカップ)

今回は、アメリカズカップの起源から第二次世界大戦までをご紹介しました。本文でもご紹介したように、初期のアメリカズカップは米英対決の場としてイギリスのカップ奪還レースのみの目的で行われていました。海洋先進国であったはずのイギリスが途上国であったアメリカに負けてしまい、ヴィクトリア女王から賜ったカップをアメリカに持ち去られてしまったわけですから、英国内での落胆は計り知れないほどでしたでしょう。また、20年近く挑戦が出来なかったほど、技術的な開きがアメリカとあったことも、イギリスにとってはこれほど屈辱的なことは歴史上無かったのではないかと思います。それほど、アメリカの産業は急激に発達を続け、アメリカが世界最大の経済国にまで上り詰めたわけですから、その勢いをイギリスは止めることが出来なかったと言っても過言ではないと思います。

アメリカズカップ Jクラス

そこに商業色を入れた紅茶王のリプトンは、まさに先見の明があったと言えると思います。彼はカップ(勝つこと)よりも紅茶をアメリカに広める、いわゆるセールスプロモーションをアメリカズカップを利用して展開し、30年以上も参戦し続けたわけです。彼の目論みは大成功したと言えると思います。また、彼のアメリカズカップのみならずヨット界に対する功績も無視できません。アメリカズカップにユニバーサルルールの採用を呼びかけ、あの優美なJクラスヨットをアメリカズカップ艇としたことです。彼の働きかけが無ければJクラスは生まれていなかったでしょう。Jクラスでのアメリカズカップレースは第二次世界大戦の勃発により僅か3回しか行われませんでしたが、Jクラスヨットは現代にレストアまたはレプリカとして造船され、現代でもJクラスのスーパーヨットレースなどが行われていることは、特筆できる点だと思います。

Jクラスについては、また別の機会に書きたいと考えています。

コメントを残す