このブログは「ヨット」というキーワードをメインテーマに書き綴っていますが、テーマの根源的なこの話題を書くべきか否かを今までずっと悩んでいました。また、この話題を書くためには、きちんとしたリサーチをしたうえで書く必要があるなって考えていたこともあり、時間とその労力を考えるとなかなか手を出せずにいました。しかし、これまでに「海外はヨットの意味が日本と全く異なる」と「ヨットと帆船の違い」という、ヨットという言葉に関する記事を2つ書き、当たらずといえども遠からず的なこれらの記事で自分的にはOKと納得させていました。(これって逃げですね。)
しかし、ついに「ヨットの語源について書け!」というお告げがきてしまいました。これだけ理屈っぽいブログを書き続けていたら、そういうお告げが来ても仕方ないなって自分も思います。世は前代未聞の全世界規模感染病で日本に居る僕たちも対岸の火事を高みの見物とは行かず、火の粉を振り払うことができずに、ついに火がついてしまいました。「外出自粛」と「3密を避ける」という事態に僕も家に籠ってブログ書きをぼちぼち再開し始めた矢先にお告げがきてしまったこともあり、この機会にこのテーマに取り組んでみることにしました。(大袈裟かなw…しかし、このブログのテーマ的な話なので適当には書けないってずっと思ってたのは事実です。)

とまあ、言い訳はこのくらいにして…

そこで今回は、ヨットの語源と歴史について掘り下げてみたいと思います。

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ヨットはオランダで生まれた

ヨットの語源を説明するためには船の歴史を紐解く必要があります。

船の出現の時期は歴史上定かではありませんが、紀元前4000年頃にはエジプトはナイル川で既に帆を使い風の力を利用していたことがエジプトの古代遺跡の絵から解っているそうです。船は文明度の高い地域で個別に発展してきたようですが、帆の付いた船を用いることにより大きな距離の移動や大量の輸送が可能となり、やがてそれは戦いの道具として帆船は重要な存在となります。12世紀頃には1本マストに四角い帆を掛けた横帆帆船が最盛期を迎え、14世紀末頃には1本マストによる大型化された帆船の発展は極限に達したことから、造船技術や工業技術の発展もあって16世紀に掛けての間で帆船は大きく変化することになります。
変化の1つは更なる大型化のために複数のマストと多くの帆を用いるようになること(セイルエリアの拡大と超大型化)、そしてもう1つの変化が小型で運動性能の高い縦帆の高速帆船技術の大型船利用です。これらの大きな変化を遂げた場所が当時のオランダです。

海運国オランダ

当時のオランダの経済的な実力は周辺国の追随を許さない程のものでした。特に漁業によるものが大きく、漁業から得た富により農業や工業が発達、海運や交易も更に盛んになりました。つまり、漁業が帆船技術の飛躍的な発展を推し進めたわけです。
漁業の中でもニシン漁が非常に盛んで、日本でもソーラン節があるようにニシン漁で一財を成す成功者が多数出るようになります。ニシン漁師は他の漁師よりも早く漁場に行くことができる速くて俊敏かつ運動性能の高い船造りを競って行ないました。また、ニシンは水揚げしてからの腐敗が早いことから、沖合に出た大型母船に集めてその場で直ぐに加工するという母船式漁業を最初に行ったことでも、オランダの漁業技術やその帆船技術の高さを伺い知ることができます。オランダはこのような形で帆船の造船技術でも他国を圧倒するようになるわけです。1670年にオランダ所属の船の数はイギリスの3倍とも言われ、当時のイギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、ドイツを合わせてもオランダ一国の数に到底かなわなかったそうです。言うまでもなくオランダは海抜の低い海運国家ではあるわけですが、そのことも相まって当時のオランダは造船が盛んで、様々な用途の多数の帆船が用途に応じて生みだされました。

オランダ語のヨット

ヨットの語源と言われる俊敏な帆船のことをオランダ語で”jacht”(ヨットと発音します)とオランダ人は呼んでいました。”jacht”はオランダ語で「狩猟」と言う意味ですが、その裏側にはこの俊敏な船を使って、海賊、密輸者、犯罪者を追いかけ捕まえるために使われていた背景があります。それを「悪人狩りをする船」という意味の俗語で”jacht”と言うようになったというわけです。こちらからオランダ語のjachtの発音を聞くことが出来ます。)つまり、現代のヨットと当時のオランダのヨットでは意味合いが大きく異なっていたということです。

チャールズ2世はヨット発祥の父

現代に続くヨットの意味を説明するためには、ヨットの発祥の父ともいえるチャールズ2世と英王室について理解する必要があります。

船好きチャールズ1世

1603年にエリザベス1世の亡き後を継いで国王となったジェームズ1世はスペインとの長期戦で壊滅的な状態になっていた英艦隊を放棄してしまうほど船に無関心な国王でしたが、その子供で次の国王に即位するチャールズ1世は幼少期から帆船模型を与えられて育ち、即位後は軍艦税の徴収を議会の反対を押し切って強行し豪華軍艦を建造するのほどの無類の船好きでした。しかし、このような絶対王政を強行したチャールズ1世はピューリタン革命により処刑されてしまいます。

亡命王チャールズ2世

その後1651年にその子であるチャールズ2世がスコットランド王を宣言します。チャールズ2世は父譲りの船好きでしたが、イングランド王復位を目指したウスターの戦いに敗れ、フランス北岸からオランダに亡命します。1660年にオランダからイギリスに戻ることになったチャールズ2世はオランダのプレダからデルフトまでの水路をロッテルダム海軍の帆船(jacht)に乗り僚船12隻に守られ水路を航行した際、その帆船(jacht)が大そう気に入ったようで、その様子を知ったアムステルダム市長やオランダ東インド会社が王政復古のお祝いとして王に同型の帆船を献上します。この帆船は30人乗り、大砲8門を備えた長さ16メートル、幅6メートル、喫水1メートル、100トンでスプリット方式のメインスル(メインセイル)を持つ1本マストのスループ型帆船で、王の妹の名に因んで「メアリー」”Mary”と命名されます。
チャールズ2世のメアリー号

オランダから来た”jacht”を初めて見たイギリス人は、その素晴らしい外観に目を見張ったそうです。
この後、チャールズ2世はこの帆船の線図を使って1661年までに2隻の帆船をイギリスの造船技師に造らせ、その2隻で弟のヨーク公と100ギニーを懸けてテムズ川でその速さを競います。(これが世界初のヨットレースと言われています。)また、それと同じ頃にオランダから長さ10メートル、喫水1メートル、35トンの”jacht”「ベザン」が献上されてきたことからイギリスには4隻の快速帆船が出現することになります。
この時代の船は全て軍艦や働く船でしたが、王族の遊びのための帆船がこのようにできてから、イギリスではこのような帆船のことを英語でヨット”yacht”と呼ぶようになりました。これは、オランダからもたらされた快速帆船の呼び名”jacht”から現代につながる”yacht”に変わった瞬間です。
こう言ったことから、「チャールズ2世は現代ヨットの父」と言えるわけです。

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現代ヨットの文化を作った英王室ヨット

チャールズ2世は、オランダから献上された”jacht”(メアリー号)をレースに使用することはありませんでしたが、たちまち”jacht”の虜となったチャールズ2世はウーリッジの造船技師に同じような帆船を造ることを命じます。また当時、海軍本部の責任者であった弟のヨーク公(後のジェームズ2世)にも別の帆船を建造させます。

キャサリンとアン

完成したチャールズ2世の帆船は王妃の名前を取って「キャサリン」、ヨーク公の帆船は娘の名前を取って「アン」と命名されました。どちらもオランダから来た「メアリー」と同じ100トンでしたが、そのデザインは働く船としての頑丈過ぎる構造を廃して軽量化し、横幅を狭め、リーボードを使わず喫水を深くし、メインスルはガフセイルでその上に横帆のトップスルを備えるなど、イギリス船ならではの工夫が施されました。

チャールズ2世のヨット

ベザン

「キャサリン」と「アン」が出来上がった前後に、オランダから新たに献上された「ベザン」は、短いガフと長いブームのメインスルをもつ1本マストで長さ10メートル、喫水1メートル、35トンの典型的なオランダの”jacht”でしたが帆走性能は非常に高く、速力では他の3隻も及びませんでした。この時代のヨットが非常に幅広だったのは、船内設備がとても豪華で快適に造られており、全ての調度品には装飾の粋を極め、外舷も美しい彫刻で飾られていたことから、それらに掛かる費用は建造費の6割を超えたと言いますが、「ベザン」はスリムな船体であったことから速力が他に勝っていたようです。

英王室ヨット

船好きだったチャールズ2世は、統治下のイギリス海軍造船所で試行錯誤を重ねながら26隻が新造されました。これらのヨットは娯楽用として使われましたが、イギリス・オランダ戦争の時には交代で艦隊に配備され、通信連絡や斥候用の快速船として活躍することもありました。そのため、最も小さなヨットでも砲を4門備えるなどの武装をしており、正規のイギリス海軍の軍艦として扱われました。
このように、ヨットはイギリスでチャールズ2世により一気に30隻まで増え、チャールズ2世の取り巻きである王侯貴族がそのヨットを使ってレースを楽しんだり、豪華な船内で余暇を過ごしたりしたことから、それが現代のヨットの定義につながったわけです。チャールズ2世はヨットの父であり、世界最初の熱心なヨットマンとしてヨット文化をかたち作っていったわけです。

最後に…王の道楽がヨットのはじまり

ヨットの父であるチャールズ2世ですが、当時のイギリスでは王政復古したからと言っても王の権力は限られたもので治世は議会が行っていました。このことにより、王としての役割は実質象徴的なものとなったことから王としての役割はなくなってしまいます。だからこそ彼の船好きがヨットの世界を作ったのです。
絶対君主であったなら王の力で何もかも手に入れればよいわけですからヨットなど興味の対象にはならなかったに違いありません、しかし、王として特にやることない彼にとって熱心に打ち込めることがヨットだったわけです。議会にしてみればヨットにうつつを抜かしていても、静かにしていてくれれば多少の無駄使いとして船を造ることくらいは許していたとも言えます。また、船を試行錯誤を重ねて何隻も持てば次はその性能を試すために競いたくなるのは人の常とも言えます。イギリス社会がチャールズ2世の道楽を許せる経済的な余裕を持っていた時代だったからこそできたことであり、現代に続くヨット文化のつぼみができたといえます。
イギリスも大航海時代に入り、海洋国家として世界中へ出て行くようになり強大な力を持つようになります。また、その後の産業革命により急激に経済成長し成功者である事業家が社交界にこぞって入ってきます。王侯貴族だけのものだったヨットの世界にもこういった成功者たちが参入してくることで、ヨット文化はより裾野が広がりをみせ開花したわけです。
ヨットと言う言葉は、船の種類を示す言葉ではなく遊びのかたちを示す言葉ともいえます。つまり、船が帆船なのか動力船なのかという事は関係なく、レースや余暇を過ごすための「遊びための船」という定義です。欧米でのスーパーヨットを所有する人たちにとっては、かつての王侯貴族の社交界的なヨット界に参加することは成功者にとっての究極のステータスでもあるという事です。そして、ヨットを所有するという事、それはすなわち成功者の証でもあるわけです。
今やヨットは一般の人でも努力すれば持てるような物になりましたが、それでもそれぞれの範囲で成功者であるという事に変わりありません。だからこそ遊びを楽しむためだけの船を持ち、ヨット楽しむことができるというわけです。

 
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